大正15年(1926)の創立以来、建学の理念「智慧と慈悲の実践」による人材の育成に努めてきました。
そんな大正大学の100年のあゆみをふり返ります。
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大正7年(1918)に公布された大学令は、明治時代の大学制度を再編し、日本の高等教育の発展を目指して制定された重要な法令です。それまで「大学」は官立(現国立)の帝国大学のみで、大正7年当時は東京、京都、東北、九州、北海道の5校しかありませんでした。しかし、この大学令によって官・公立単科大学、私立大学の設置が認められるようになりました。
大学令の公布を受けて、大正9年(1920)には東京商科大学(現一橋大学)、慶應義塾大学、早稲田大学などが「大学」として認可されました。宗教系の学校でも同年にキリスト教系の同志社大学、神道系の私立國學院大學(現國學院大學)、仏教系でも同11年には仏教大学(現龍谷大学)、真宗大谷大学(現大谷大学)、同13年には日蓮宗大学(現立正大学)、同14年には曹洞宗大学(現駒澤大学)、同15年には大正大学、高野山大学が「大学」に昇格しました。
このように大学令によって大学数は増加し、専門的な学問が各大学で行われるようになり、学問分野が体系化していったのです。
大正7年(1918)12月に大学令が公布されると、翌年3月には超宗派組織である仏教護国団において、教科大学新設が椎尾弁匡、矢吹慶輝、渡辺海旭によって検討されています。5月には各宗派に対して、澤柳政太郎(教育学者)、高楠順次郎(仏教学者)、村上専精(仏教学者)、前田慧雲(仏教学者)らによる仏教連合大学設立の進言が、「教界の長老諸師に呈す」(高島米峰起草)としてなされました。同月、椎尾弁匡らと高楠順次郎、藤岡勝二(言語学者)、片山國嘉(医学者)、富士川游(医学者)、高島米峰(仏教学者)、常盤大定(仏教学者)が懇談しています。
各宗派においても宗立大学案、連合大学案の双方が検討されました。真言宗では古義・新義の連合法務所に「大学令に依る仏教各宗派連合の教科大学設立を以て最良の方法」とした議案を提出しています。また、天台宗では教学商議会で「仏教各宗派の連合に依り完全なる大学程度の学校を設立せしめ之に加盟するを最善の方法と信ず」とする答申を議決しています。
こうした流れを受けて、同11年(1922)10月に各宗教育調査会が発足し、11月には連合大学設立私案(渡辺海旭起草)が発表され、実現に向けての一歩を踏み出しました。
なお、『六大新報』(第812号、大正8年(1919)5月18日、12-13頁)に掲載されている檄文の全文は、澤柳、高楠、村上、前田のほか、富士川、藤岡、岡田良平(前文部大臣)、常盤、片山、高島の10名による連署となっています。ここには姉崎正治の名が見られないなど、これまでの本学の定説との差異もあり、今後の研究が待たれます。
大正12年(1923)9月1日に関東地方を大規模な地震が襲いました。関東大震災です。震源は相模湾で、マグニチュードは7.9でした。地震により火災や津波も発生し、死者・行方不明者は約10万5千人にも達し、多くの建物が倒壊しました。
大正大学の前身校である宗教大学は敷地を囲む塀が倒壊するなどの被害を受けましたが、校舎は無事でした。それもあってか、敷地内に地域住民およそ500名が避難してきたと記録されています。また宗教大学は自ら校舎開放を申し出、9月8日には陸軍歩兵第三十連隊大隊が駐在しています。さらに9月10日に宗教大学救護団が組織され、学生・教職員の被災状況の確認、各寺院との連携がなされ、学生有志が避難所での災害ボランティアを行っています。その活動内容の一部は「慰問品給与、職業紹介、代筆、通信事務代理、其他一般の救済事業」と記されています。
もちろん、こうした災害支援は仏教各宗派を挙げて行われました。その影響もあり、同13年(1924)4月に予定されていた仏教連合大学設立は延期されることになりました。
大正13年(1924)7月、既に仏教連合大学設立を表明していた天台宗・真言宗豊山派・浄土宗の三宗派によって、大学設立準備のための委員会が発足しました。準備は着々と進み、翌14年(1925)7月には仏教教育財団(理事長大谷愍成。同年9月に渡辺海旭へ交代)が組織されました。これは、私立大学は「財団法人であるか財団法人の経営するもの」とした大学令によるものです。また、私立大学の設立にあたり、財団法人は文部省に当時のお金で50万円を供託することが義務づけられていました。これは大学に必要な設備や教員を確保し、持続的に運営できる経済的基盤を持っていることを証明するためのものでした。いわば「大学」としての教育の質保証ともいえるでしょう。
こうした紆余曲折を経て、大正15年(1926)4月5日に大正大学設立の認可がおりました。
北原白秋作詞/山田耕筰作曲「大正大学校歌」
安藤徇之介作詞/本多鉄麿※作曲「栄冠今ぞ我らに」
※本多鉄麿(慈祐)は大正大学国文科卒業(昭和5年)。常楽院住職。神代幼稚園長。日本仏教保育協会常任理事、日本仏教音楽協会理事、天台保育連盟理事長を歴任。「おもいでのアルバム」(1961)の作曲者。
昭和14年(1939)7月29日付、文部省教学局発企23号による校旗制定由来の照会に対し、大正大学は創立当時、5名の委員を任命し、各宗旗や各校旗、団体旗等を参照してデザインを制定し、創立記念式典時には天台宗・真言宗豊山派・浄土宗の各管長によって校旗が寄贈されたと回答しています。
また、ここでは大正大学を5世紀初頭、グプタ王朝のクマーラグプタ1世によって、ラージャグリハ(王舎城)の近郊に建設された学問寺ナーランダ僧院を再現するものと位置づけています。校旗のデザインについては、中央の菩提樹の実は釈尊、実の中にある大きな点は仏教の全ての教え(八万四千の法蔵)、小さな点は釈尊の生涯(八相)、3枚の菩提樹の葉は釈尊の誕生・成道・涅槃および設立三宗派(天台宗・真言宗豊山派・浄土宗)、その周りを巡る36本の線は釈尊が成道のときに敷かれたという吉祥草で、仏教研究および仏教信者を守護する三十六善神を表します。これらの意匠によって、大正大学が仏教研究の中心であることを象徴するのです。
僧侶が集団生活を送る場は寺院ですが、特に修学を目的とした生活の場を学寮といいます。広い意味では大正大学もまた学寮といえるでしょう。その大正大学にはかつて寄宿舎としての学生寮が存在しました。古くは宗教大学の学寮であった明照学舎。この学寮は小石川の伝通院近くにありましたが、明治41年(1908)、宗教大学の移転に伴い西巣鴨に新設されました。
そして、学寮は次のように変遷していきます。昭和33年(1958)に新設された男子寮(1981年閉寮)。この学寮は同35年刊の『学校案内 大学編』には「近代的設備の学寮」と紹介されています。同40年(1965)には女子寮として光琳寮(1996年閉寮)。また埼玉校舎が開設されると、同53年(1978)に埼玉男子寮として道心寮(1998年閉寮)が、翌年に埼玉女子寮として紫雲寮(1993年閉寮)が新設されました。
また学外の学寮として、第11代学長大村桂厳が主宰した勢至学寮、別科仏教専修天台学コースの学生を対象とした谷中天王寺学寮、豊山学寮(練馬区の長命寺内)、智山学寮(港区の真福寺内)、千日谷文庫寮(女子寮。新宿区の一行院内)などがありました。
巣鴨男子寮の舎監であった武智孝英は多くの寮生に慕われ、37回忌法要が大学礼拝堂で営まれています。また苦楽を分かち、寝食を共にした学生同士の結びつきは強く、令和6年時点で大正大学の任意制の登録団体「鴨台倶楽部」には7つの学寮系団体が承認されています。
上記の学寮は、現在はすでに存在しませんが、大正大学の「失われた伝統」といえるでしょう。
学生生徒の思想問題や天皇機関説事件を憂慮し、外来のマルクス主義や自由主義ではなく日本固有の精神性を積極的に教えていこうとする、いわば愛国教育、そのための改革を教学刷新といいます。それを具体化するための組織が昭和11年(1936)に内閣総理大臣の諮問機関として設置された日本諸学振興委員会です。
日本諸学振興委員会は単に学術研究の推進を目指しただけでなく、社会や産業の発展に直接貢献する「実学」の振興を重要な使命としていました。学会では、高邁(こうまい)で深遠な思想研究や地道な基礎研究ではなく、「国体明徴」「興亜」といった国家の目的に沿った講演や発表が中等学校の教員を対象としてなされました。国家の目的を教育によって国民に浸透させる準備が整ったことによって、単に軍事力だけでなく、政治・経済・文化といった社会のあらゆる側面を戦争目的のために組織化・動員し、統制する総力戦体制が築きあげられていったのです。
明治・大正・昭和前期の日本人男性には兵役がありました。これは明治6年(1873)の徴兵令、度々改正されて、昭和2年(1927)の兵役法という法律で定められた国民の義務です。ただし、例外もあります。そのひとつが「学生」です。学生であるうちは兵役が猶予されました。大正大学も兵役猶予という特典をもった大学のひとつでした。
しかし、日中戦争に際して制定された同13年(1938)の国家総動員法、また、太平洋戦争末期、同18年(1943)の在学徴集延期臨時特例によって、卒業まで徴兵が猶予されていた大学生や専門学校生の徴兵猶予が停止され、文系学生を中心に徴兵年齢(20歳)に達する者が臨時徴兵検査を受け、合格すれば陸海軍に入隊することになりました。いわゆる学徒出陣です。大正大学からの出征兵士(学生)について、資料不足のため全体像は把握できていませんが、戦地から帰ってこなかった学生も多くいます。
たとえば、戦没学生の遺稿集である『雲ながるる果てに 戦歿飛行予備学生の手記』には大正大学出身者の遺書も含まれています。
昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると9月には戦意高揚を目的とした国民精神総動員運動が全国で展開されました。プロパガンダ中心でしたが、自発的な勤労奉仕(ボランティア)が奨励されました。
しかし、翌年の国家総動員法、これに基づく同16年(1941)の国民勤労報国協力令、同19年(1944)の学徒勤労令によって、任意の勤労奉仕は義務としての勤労動員に変わっていきました。これに伴い段階的に修業年限が短縮されています。大正大学でも北海道や長野県での農業動員、赤羽、板橋、大島、蒲田、亀戸、錦糸町、志村、関屋、立石、立川、月島、東大崎、深川(東京)、川崎、鶴見(神奈川)、朝霞、東松山(埼玉)での工場動員がなされています。
また学内に東京光学の分工場が設置されました。勤労動員に際しては、教員による引率、巡視、宿直が行われ、その合間をぬって短縮された修業年限を補うように非公式な授業がなされました。これらを管理したのは、国民精神総動員運動と学校教育を連携させる役割を負った訓育主事(学生指導担当)でした。こうした勤労動員を体験した学生は「通学から通勤」と、当時を振り返っています。
昭和20年(1945)4月13日から14日にかけての城北空襲は、アメリカ陸軍航空軍(USAAF)によるOperation Meetinghouse(東京大空襲)の一環でした。豊島区、板橋区、荒川区、北区が330機のB29の爆撃を受けました。以下は、大正大学から徒歩10分ほど、上池袋交差点近くにあった豊島高等女学校の様子です。
「癌研の高台から西北の方を見ますと、板橋、滝野川、荒川方面は火の海となって燃えている最中でした。バリバリと物の燃える音、バアンバアンと物の破裂する音、人や犬の泣きわめく声、果しなく続く炎の波が、東へ西へ南へ北へとなびきながら、ゴーゴーと海鳴りのように音を立てて、何万という建物が一斉に燃える光景は、正に此の世の生地獄というのでしょう」。
城北空襲によって、死者およそ2千人、被災家屋およそ17万戸、被災者およそ64万人という甚大な害を被りましたが、大正大学は「幸いにして学内には一発の飛弾(ひだん)もなく、あれほどの猛火からも延焼は免れ」ました。さらに、これは「偏(ひとえ)に本尊阿弥陀如来のご加護によるもの」と『同窓会報』で回想されています。
また、4月14日から17日にかけて被災者支援(旧本館に被災者3500名を収容)を行なったことが仏教科専門部長であった友松円諦の日記に窺えます。
日本は昭和20年(1945)9月2日から同27年(1952)4月28日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下におかれました。ここでは様々な戦後改革が行われました。そのひとつに教育の民主化があります。担当したのは民間情報教育局(CIE)です。米国教育使節団の来日を踏まえ、日本側に委員会の設置を指示しています。ここで設立されたのが教育家委員会です。CIEの調査および教育家委員会の協力をもとに米国教育使節団が作成した報告書によって、改めてGHQの指令によって設立されたのが教育刷新委員会(1949年に教育刷新審議会と改称)です。ここから改革案を提出し、それらをCIEが審査・指導・監督するかたちで教育制度改革が進められました。
同22年(1947)3月、学校教育法が公布されました。これによって六・三・三・四制度が定められています。これをうけ同23年(1948)1月に大学設置委員会(1949年に大学設置審議会と改称)が設立され、認可に関する審査を行いました。
大正大学では同23年2月に新制大学設立のための正大制度審議委員会を組織、また4月に新制大正大学設立後援会も設立され、7月には文部省(当時)に設立認可申請書を提出しています。そして同24年(1949)2月に新制大学として認可され、新たなスタートを切ることになったのです。
昭和22年(1947)5月2日、大学当局と教職員の「興隆会」が催され、「仏教綜合大学設立の可否」が問われました。結果は「真の綜合大学には賛成。単なる連合大学には難色あり」でした。設立経緯に加え、同16年(1941)、宗教団体法によって成立した合同真言宗の教育問題から、再び仏教連合大学設置案が提出されました。天台宗・浄土宗・曹洞宗・日蓮宗・真言宗の賛同を得ましたが、連合の組織・時期については継続審議となり、結果として同18年(1943)に智山専門学校が大正大学に併合されています。
また同22年6月30日、仏教連合会主催の全日本仏教代表者協議会では再々仏教綜合大学設置が協議されました。これは各宗立大学を統合し、東京と京都に医科・農科・理科を備えた総合大学を設置するという構想でしたが、実現はしませんでした。
こうした経緯から正大制度審議委員会が模索した「真の綜合大学」のかたちは、夜間部を併置した仏教学部・文学部・社会経済学部の三学部制でした。ただし、社会経済学部の設立は時期尚早として延期、教職課程の充実と将来における社会事業研究所(カウンセリング研究所として実現)・仏教芸術研究所(綜合佛教研究所として実現)の設立が合意形成されています。
同55年(1980)から刊行されたシリーズ大正大学選書(TU選書)の「刊行の辞」では「広く一般社会に学問の内容を公開し、生涯教育の一翼を担う」ことを「大学存立の意義」、「唯一の仏教綜合大学として、広い視野から仏教の研究がなされる」ことを「本学の特色」としています。戦後すぐに掲げられた「綜合」という理念を着実に実現していったのが大正大学の歴史であるといえるでしょう。
日米安保条約改定に臨み、昭和35年(1960)5月20日、衆議院で新安保条約が強行採決されました。これが反平和主義・非民主主義であるとし、労働者や学生らによる市民運動(反政府運動)が全国的に展開しました。野党である日本社会党・日本共産党などの政党、日本労働組合総評議会などの労働組合、全日本学生自治会総連合などの学生団体が共闘し、国会議事堂を取り囲むデモ(ピケッティング、突入など)やストライキ(鉄道の運行停止、工場での生産活動停止、商店での販売停止、学園封鎖など)が行われました。
こうした社会混乱を受け、超宗派組織である全日本仏教会は6月22日に各宗宗務総長会議を開き、対応を検討。翌23日に「今日の混乱は、世人が智慧(ちえ)の光を失った無明から起こったものである」として「政府、政党」に猛省を促す一方、市民運動を「大衆示威行動」「逸脱」とし、「一般国民」にも「自制」を求め、「われわれは、総じて暴力、特に左右両極の集団暴力による法秩序の破壊の防止と排除を要求する」と声明を発表しています。
この声明を受け、民主主義を守る仏教徒の会は29日に全日本仏教会に要請書を出しています。政府側が平和からの逆行、市民側が平和の希求であるという前提に立ち、声明は「どっちつかずの卑俗な中道観」であり、具体的な言動(「時局批判」)を行うよう要望しています。この民主主義を守る仏教徒の会の世話人には大正大学関係者の名も複数記されています。
60年安保闘争は岸信介首相の退陣表明により終息に向かいましたが、条約の自動更新に反対する70年安保闘争として再燃しました。これは反安保条約のみならずベトナム反戦運動、沖縄返還要求運動(反基地運動)という性格も持ち合わせていました。また、全学共闘会議(全共闘)、つまり学生が運動の主体となりました。既存の枠組み(既成左翼、教授会といった権威、あるいは伝統文化)に捉われない急進的な活動から新左翼と称されました。
こうした学生運動とカウンターカルチャーは相互に影響しています。カウンターカルチャーとは、ロックやフォークなどの音楽(反戦)・ジャズ喫茶(自宅・学校・職場などではないサードプレイス)・アングラ演劇(反商業主義)、あるいは同人誌・コミックマーケット(自主・非営利)などのことです。
全共闘による無期限ストライキ(授業ボイコット)や大学の建物封鎖・占拠に対し、政府は昭和44年(1969)8月に大学の運営に関する臨時措置法を公布しました。これは大学紛争が9ヶ月以上続いた場合、文部大臣(当時)が大学の教育研究機能を停止できるとしたものです。結果として一度も適用されませんでしたが、各大学当局は紛争を収束するため機動隊の出動を要請しました。これが「大学の自治」(学問の自由)に抵触するとして、全共闘は大学のあり方そのものの問い直し(大衆団交)も行いました。
同年9月18日、大正大学でも学長選出をめぐり一部の学生が総務室・理事長室を占拠しました。機動隊も出動しましたが、翌19日には教職員によって解除されています。雑誌『大乗』20号(大乗刊行会1969)には「従来学生運動の激しくなかった大正大学だけに関係者を驚かせている」と記されています。
60年・70年安保闘争に際し、大正大学歴代学長は学生に対して次のように述べています。第15代学長那須政隆は全学連と同調しなかった大正大学の学生を「頼もしき次第であった」と評価します。第18代学長櫛田良洪は「仏陀の智慧と慈悲に根本を置く本学の使命は重大といわなければいけない」と現在の建学理念にもつながることばをかけています。第20代学長福井康順は「今日の社会は、変転きわまりない情報過多の社会である。そこで、青年学子の多くは、その社会の渦中にあって、いわば不消化のままで、もしくは無批判のままで、情報におし流されてしまわざるを得ない」と現代にも通じる問題意識をもって学生への理解を示しました。
しかしながら、学園紛争が下火になっていた昭和48年(1973)11月6日、一部の学生が事務室に乱入し、総務部長を拉致し、教室に監禁するという事件が起こりました。これを受け翌12月19日の教授会において学則44条に基づいて、学生3名の退学、2名の1ヶ年停学、3名の3ヶ月停学、3名の1ヶ月停学、1名の15日間謹慎が決定しています。
第21代学長中村康隆は「仏教の根本精神が『和』にあり、その教団が『和合』の理念に貫かれていることはいうまでもありませんが、しかし『破和合』の徒に対しては涙をふるって教団外に放逐したことも事実であります」と厳しい態度をみせます。しかしながら、大学が抱える問題解決に際して「学生諸君との間の信頼関係の上に立って、共に手をたずさえて、歩一歩、今日から明日へ向かってたゆまず努力する以外に道はないと信じております」と学生にも協力を求めています。つまり、暴力に頼らず対話による問題解決がここでいわれる「和合の精神」といえるでしょう。
大正大学がある西巣鴨の校地は元々増上寺(浄土宗)の所有地であり、大学独自の校地取得は長年の懸案でした。これに応え、昭和48年(1973)に発足した大正大学設立50周年記念委員会は記念事業として校地取得の準備に入ります。そして同51年(1976)、埼玉県松伏町の実践学園女子短期大学跡地(それ以前は淑徳学園女子短期大学の用地)を取得しました。あわせて段階的に周辺地も取得し整備が進められました。同53年(1978)4月5日、埼玉校舎開校式が執り行われています。同年に埼玉男子寮(道心寮)、同54年(1979)に女子寮(紫雲寮)、同55年(1980)に体育館、同56年(1981)にグラウンド、同59年(1984)に大教室棟、同63年(1988)に学生ホール、勤行室(増築)が完成しています。
埼玉校舎では仏教学科1年生の全寮教育が実施されました。これは設立各宗派の宗学振興をはかるものですが、単に僧侶養成(僧堂教育)に限定されません。第21代学長中村康隆は「世界の混乱」の原因を個人・集団を問わぬ「エゴイズム(利己主義)とナルシシズム(自己偏愛)」および「相互不信」による「闘争」とし、これは「人類を破滅に陥れる道」としたうえで、その超克は「和合」、ひいては「生命尊重の仏教精神に基づく信念の人を教育する以外にない」と高らかに謳(うた)います。「世界の風潮を立ち直らす道」を実践する人材の育成、これを目指す大正大学の教育を「僧風教育」と称しています。
昭和17年(1942)5月、第9代学長椎尾弁匡は大正大学の将来計画について5つのテーマを設け、教員にも意見を尋ねています。そのひとつが大正大学の国際化です。教員の応答として1、国際親善、2、語学学修・海外留学の励行、3、外国人留学生を対象とした日本語コースの設立等が挙げられています。戦後の大正大学は、これらの課題を一つひとつ実現してきました。
一端を挙げれば、1、海外研修制度の設置、教職員がヨーロッパ、東アジア、南アジア、東南アジアの各国を視察。ハワイ大学(アメリカ)、東国大学校(韓国)、河南大学・北京大学・上海大学(中国)、ミュンヘン大学(ドイツ)等との協定締結および定期的な国際学術交流。2、ハワイ大学、ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)、ミュンヘン大学、北京大学等における集中講座(海外語学研修)の実施。カンボジアでのボランティアキャンプの実施。3、別科日本語専修の設置、中国・台湾・韓国・ベトナム・モンゴル・タイ等からの留学生受け入れ。寺院での留学生寄宿(ホストファミリー)などです。
現在では仏陀会(6月)に大学関係者の追悼慰霊法要が厳修(ごんしゅ)されていますが、大正大学では戦前から亡くなった教職員、学生、卒業生の追悼慰霊法要を営んできました。主催は大学、研究室、学友会、鴨台会(同窓会)等、様々です。法要では設立宗派の教職員が回り持ちで導師をつとめ、遺族、教職員、学生、卒業生、一般等の人々が参列しました。時節柄、特に戦病死者の追悼慰霊が多く行われています。
明治32年(1899)の文部省(当時)訓令第12号によって公立私立を問わず学校における宗教教育は禁止されていましたが、大正大学では慰霊追悼法要を僧侶養成の一環とし、また昭和10年(1935)の「宗教的情操の涵養(かんよう)に関する留意事項」(発普第160号)によって釈尊、聖徳太子ならびに各宗祖師を敬う儀礼とともに大学関係者の追悼慰霊法要を一般学生も対象とする宗教的情操教育と位置づけています。
戦後も追悼慰霊は行われます。巣鴨男子寮には護国英霊と記された位牌が祀られていました。また、学徒出陣によって出征し帰ることの叶(かな)わなかった学生の追悼慰霊のために平和観音菩薩像が造顕(ぞうけん)され、平成7年(1995)12月8日の成道会に際して当時の理事長太田秀三が導師をつとめ開眼法要が営まれています。こうした追悼慰霊は学内に留まらず、昭和27年(1952)7月6日に大正大学学生有志20余名による殉難者の慰霊祭が谷川岳で執り行われています。近年でも平成19年(2007)8月7日に大正大学同窓会愛知県支部が発願し、南太平洋戦没者慰霊碑(大正大学並びに大正大学同窓会愛知県支部名)を建立、開眼法要(慰霊祭)をサイパン島で厳修し、同23年(2011)7月10日には同じく同窓会南九州支部による「宮城県南三陸町慰霊祈念回向行脚(えこうあんぎゃ)」が行われています。大学機関誌への追悼記事掲載等も含め、こうした取り組みは枚挙に遑(いとま)がなく、大正大学の伝統のひとつといえます。
日本の大学は、戦前はおよそ50校でしたが、戦後、1940年代後半の新制大学発足期と1960年代の高度経済成長期に増加し、700校を超えました(現在はおよそ800校)。これは4年制大学への進学を希望する18歳人口の増加、4年制大学の卒業者を求める企業といった社会のニーズにあわせた変化だといえます。こうした大学の量的な変化は、その質的な変化ももたらします。いわゆる教育の大衆化です。これを第18代学長櫛田良洪は「学生が、ベルト・コンベアーで運ばれる工場製品のように、どんどんと社会に送り出されていく」と例え、そこには教職員と学生との「人間的つながり」がないと問題提起しています。
第23代学長牧尾良海は設立から現在(当時)までの大正大学のあり方を「大教室・大講堂・マイクロフォン講義等によって諸種の学士をベルトコンベァで送り出す式の(中略)大学経営からは遥かに遠い地道な学林的経営」であったと振り返ります。そして、大正大学が理想とし、実践してきたのは、少数精鋭の「手造りの対機教育」だとします。対機教育とは、学生個々のあり方を見極め、最も効果的な学びを提供し、また学生の状況によって内容やアプローチを調整する教育です。こうした教育を貫くのは時代状況から「多くの苦しみや限界に悩まねばなりません」としながらも「先覚のうち立てられた大旗」、つまり伝統を「守り続けたい」としています。
文部大臣の諮問機関である大学審議会(昭和62年(1987)設置)は、平成3年(1991)3月、「各大学で多様で特色あるカリキュラム設計」ができるように大学設置基準の改正を答申しました。これを受けて同年7月、学校教育法、大学設置基準等が改正されました。いわゆる大学設置基準大綱化です。ここから日本の高等教育における抜本的な改革がはじまりました。各大学は学部の目的や理念に合わせて、自由に科目を配置できるようになり、学部学科の名称もより自由に設定できるようになりました。また必修科目の設定も各大学の裁量に委ねられました。
大正大学では少子化による定員割れという社会予測に基づき、大学教育のあり方や方法を検討する「将来委員会」を設け、従来から議論を行っていました。そこに大学設置基準大綱化が重なったことから、前例のない「全学規模の改組」「全学科の組み替え」に踏み切りました。
平成5年(1993)、従来の仏教学部仏教学科、文学部社会福祉学科・社会学科・哲学科・文学科・史学科から、新たに人間学部仏教学科・人間福祉学科・社会学科、文学部国際文化学科・日本語日本文学科・史学科へと改組したのです。また、通年の学年歴を改め、セメスター制(二学期制)を導入しました。加えて、学問領域で区分されていた一般教育課程(Ⅰ類)をテーマによる選択式(言語および思想に関する「思惟する人間」「釈尊の教えとその展開」「異文化の理解」「言語と表現」、歴史および社会に関する「歴史を見る眼」「現代社会の構造」「現代メディア論」、自然および生命・環境に関する「自然・人間・共生」「人間と健康」、外国語に関する「世界の言語」)としました。現在では当たり前となったシラバスの公開や学生アンケートも、この時に導入されています。
大学設置基準第26条には「大学は、教育上必要と認められる場合には、昼夜開講制(同一学部において昼間及び夜間の双方の時間帯において授業を行うことをいう。)により授業を行うことができる」とあります。大学設置基準大綱化以前は昼間部と夜間部(二部)が明確に区分されていましたが、この昼夜開講制ではひとつの学部に昼間主コースと夜間主コースが並置されます。
この制度は時間的制約の多い社会人を対象としたより豊かな人生を送るための生涯学習、仕事やキャリアに直結するスキルを習得するためのリカレント教育を目的としていますが、学生にとっては授業時間の選択がより柔軟になるのがメリットといえます(夜間主コースの学生が1限を受講することも可能)。
大正大学では平成9年(1997)にまず仏教学科に夜間主コースを設置しました。そして、翌10年には全学部全学科に夜間主コースの設置が認可されました。その結果、11年に全学で昼夜開講制が導入されました。これにより、時間割(90分授業)は1限が9:10〜10:40、2限が10:50〜12:20、昼休みが12:20〜13:10、3限が13:10〜14:40、4限が14:50〜16:20、5限が16:30〜18:00、6限が18:15〜19:45、7限が19:50〜21:20となりました。これに伴い大学施設の利用時間、たとえば図書館の閲覧可能時間も9:00〜17:00から9:00〜21:00となりました。この制度は、平成21年(2009)4月に募集を停止するまで行われました。
戦後の新制大正大学は、昭和25年(1950)11月に大学院設置の申請書を文部省に提出、翌26年4月に認可されています。設置されたのは文学研究科仏教学専攻・宗教学専攻・国文学専攻の修士課程です。同31年(1956)3月に博士課程が増設されています。この後、同53年(1978)に史学専攻の修士課程・博士課程が設置されました。そして全学改組後の平成9年(1997)、大正大学大学院も拡充されます。比較文化専攻・社会福祉学専攻・臨床心理学専攻の修士課程が設置されました。続けて同11年(1999)には比較文化専攻、福祉・臨床心理学専攻の博士課程が増設、加えて人間科学専攻の修士課程が設置されています。
平成13年(2001)、仏教学研究科・人間学研究科が設置され、従来の文学研究科とあわせ、三研究科体制、すなわち仏教学研究科仏教学専攻、人間学研究科社会福祉学専攻・臨床心理学専攻・人間科学専攻、福祉・臨床心理学専攻、文学研究科宗教学専攻・史学専攻・国文学専攻・比較文化専攻となりました。
昭和62年(1987)、臨時教育審議会第三次答申の「開かれた学校」という提言以前から大正大学では一般に向け、仏陀会記念講演会(6月)、創立記念講演会(10月)、成道会記念講演会(12月)などを催してきました。また、春季・秋季のオープンカレッジを実施し、校外においても古刹や名勝を巡り関連したテーマについての講演を行う特別公開講座等を開催してきました。さらに豊島区との共催や埼玉県からの委託による公開講座も行っています。
平成9年(1997)からは大正大学アカデミーヒルズ(赤坂)、平成14年(2002)からは浜松町サテライト教室を設け、たとえば養老孟司氏やひろさちや氏による講座を開講してきました(現在は閉鎖)。
また大学施設の開放や校外での開講に留まらず、大正大学の掲げる「地域主義」に沿って、大学と地域が協働する場として、平成25年(2013)には南三陸エリアキャンパス(宮城県)、同29年には阿南サテライトキャンパス(徳島県)、同30年には藤枝サテライトキャンパス(静岡県)、令和2年(2020)には淡路サテライトキャンパス(兵庫県)、同3年にはすがも街なかキャンパス(東京都)、同5年には京都エリアキャンパス(京都府)、同7年にはニューヨーク・ブルックリンサテライトキャンパス(アメリカ)と薬師寺サテライトキャンパス(奈良県)を開設しています。
これらは学生や卒業生の活動拠点として、リカレント教育の場として、あるいは建学の理念である「智慧と慈悲の実践」の場として稼働しています。
大正大学は、単に過去に学ぶだけではなく、それを現代社会に活かす試みを続けてきたといえます。社会とは人間集団の営みのあり方です。ここから大正大学は、改組にあたり「人間」に注目しました。
全学改組にあたり仏教学部という名称がなくなることに反対もありましたが、新たに設置された人間学部は
という教育目標を掲げています。こうした想いは当時の宣伝ポスター、そのキャッチフレーズである「人間がいちばんおもしろい」に端的にあらわされています。
大正大学建学の理念は、これまで「綜合」「和合の精神」「手造りの教育」「人間」など、その時々の社会状況に対応して、様々な観点から語られてきました。平成13年(2001)の新旧学長の対談で、第29代学長村中祐生は、建学の理念を「わかっているようで、わかっていない」、しかし、「初代の学長澤柳政太郎先生が話された式辞の中に語られている」としています。また、第30代学長松濤誠達は、「『慈』と『悲』の実践」(慈:無限定の友愛、悲:思いやりの精神)としています。
こうした状況を踏まえ、将来の中長期的な目標を達成するために策定する数年間の具体的な行動計画である中期マスタープラン(平成21年(2009)理事会承認)、およびその中核となるTSR(大正大学の社会的責任)では、初代学長澤柳政太郎によって語られたことば、これまでの大正大学の歴史に鑑み、建学の理念を「智慧と慈悲の実践」としました。
仏教系大学会議は、平成6年(1994)に設立された建学の理念を仏教に置く日本の大学・短期大学の連携組織です。相互の個性を尊重しつつ、大学間の連携を密にし、高等教育機関としての社会的責務を果たすことを目的としています。令和7年(2025)現在の加盟校数は57校。研修会やシンポジウムなどを通して、教育基盤の充実を図っています。
平成18年(2006)10月、大正大学が担当校として開催された第13回仏教系大学会議研修会(会場校 大谷大学)は「建学の理念の深化~高等教育ユニバーサル化への挑戦~」をテーマとしました。
同研修会で第31代学長星野英紀は、大正大学の建学の理念を「仏教の慈悲の心に基づいた協同」「複数仏教宗派の協力体制に象徴されるような仏教的寛容の具現」とし、「偏狭な一部宗教の差別主義に敢然と立ち向かうメッセージ」であるとしました。ここで建学の理念を深化させるキーワードとして挙げられたのが「慈悲、寛容、協同、連帯」です。この4つのキーワードが、後の教育ビジョン「4つの人となる」に継承されたのです。
平成18年(2006)の仏教系大学会議研修会における第31代学長星野英紀の提言、および平成20年(2008)に構想された中期マスタープラン(TSR:大正大学の社会的責任)を受け、平成21年(2009)3月、大正大学は、学生が「地域や社会、生活のあり方を常に考え、人と人との関係の再構築を目指し、他人の幸せのために生きられる人となってほしい」という願いから、新たに教育ビジョンを策定しました。それが「4つの人となる」です。これは仏教の考え方を踏まえた、教職員が学生に望む人物像、学生が人生を生き抜くうえでの指針です。
大正大学のDP(Diploma Policy:卒業認定・学位授与の方針)、CP(Curriculum Policy:教育課程編成・実施の方針)、AP(Admission Policy:入学者受け入れの方針)は、上記の「4つの人となる」に基づいて構成されています。
令和5年(2023)11月、第37代学長に神達知純が就任。その最初の仕事として「『4つの人となる』ための10の力」を策定しました。これは「4つの人となる」に基づく大正大学のDP(Diploma Policy:卒業認定・学位授与の方針)、CP(Curriculum Policy:教育課程編成・実施の方針)、AP(Admission Policy:入学者受け入れの方針)と連動し、より明確で具体的な目標を示すものです。
というように、目標設定をしました。
大正大学は、TSR(大正大学の社会的責任)の精神を胸に、東日本大震災発生直後から「鴨台ボランティアプロジェクト」として組織的な被災地支援と街頭募金活動を行いました。具体的には、平成23年(2011)4月10日から23日にかけて、教職員と学生が4つの日程に分かれ、宮城県南三陸町を中心に継続的なボランティア活動と被災した同窓生を訪ねる慰問活動を展開しました。この組織的な活動は、その後全国の大学が続々と支援に訪れるきっかけとなりました。この経験が、後に南三陸研修センター「南三陸まなびの里 いりやど」の建設へと繋がっていきます。
活動を通じて、震災からの復興を目指す地元の人々と、被災地を支援したいという学生たちの想いが繋がり、地域に新たな活気が生まれました。大正大学の復興支援は、地域に希望をもたらすとともに、学生たちにとって主体的な地域貢献を学ぶ貴重な機会となり、大学が全学的に地域を意識する大きな転換点となりました。
東北再生「私大ネット36」は、東日本大震災からの復興を教育的視点から支援するため、平成24年(2012)4月に私立大学27校が連携して発足しました(大正大学は運営・幹事校)。宮城県南三陸町を主なフィールドとし「南三陸スタディツアー」などを実施し、大学生が現地の視察やボランティア活動、ワークショップなどを通して地域の方々と交流を深めました。延べ1,257名の学生が参加した活動の特徴は、大学間の連携による多角的な支援と、学生の主体性を重視したプログラムにあります。各大学の専門性を活かし、教育・文化・産業など、様々な側面から南三陸町の復興を支援しました。これらの活動の拠点となったのが「南三陸まなびの里 いりやど」です。ここは、震災後に閉校となった旧入谷中学校の校舎を再利用し、南三陸町の復興支援活動と地域住民の交流拠点として整備されました。宿泊施設や研修室などを備え、「私大ネット36」をはじめ様々な団体の活動を支えました。
「私大ネット36」は当初の計画通り令和3年度をもって終了しましたが、10年にわたるその活動は南三陸町の復興に貢献するとともに、参加した学生たちにとっては、その成長を促す貴重な経験となりました。
大正大学は、平成28年(2016)以降、「地域主義」をスローガンとして掲げ、地域貢献事業を展開してきました。この地域貢献事業は、地域構想研究所の中核事業である「広域地域自治体連携」を基盤とし、産学連携や大学間連携を通じて行われてきました。「広域地域自治体連携」は、学生の地域実習、フィールドワーク、インターンシップの受け入れ拠点としての役割も果たしており、これは他大学にはない大正大学の特色ある取り組みとして継続されています。
大学は今後も、地域貢献や学習活動の強化を目的とした事業を継続し、全学体制での展開を目指しています 。第4次中期計画における「生涯学習デジタルネットワーク事業」は、この地域貢献事業の発展形の一部として位置づけられています。また、地域主義および地域構想研究所については、中期的展望として、以下の内容を基に将来像を取りまとめることを目指しています。
これらの取り組みを通じて、大学は地域社会との連携を深め、地域に貢献することを目指しています。
綜合仏教研究所は、新制大学移行時の正大制度審議委員会による仏教芸術研究所の設立という将来構想に基づき、昭和32年(1957)に設立された仏教学の総合的な研究拠点です。宗派を超えた多様な研究員が集い、仏教思想、歴史、文化、実践を多角的に探究し、現代社会との接点を探る学際的な研究活動を展開しています。研究所では、個々の研究に加え、共同研究プロジェクトを推進。研究成果は学術雑誌『大正大学綜合仏教研究所紀要』等で広く発信し、国内外の仏教学研究の発展に貢献しています。
国際的な学術交流も活発で、海外の研究機関との連携や研究者の相互派遣を通じて、グローバルな視点を取り入れた研究を推進。国際シンポジウムなども開催し、国際的な仏教学研究のネットワークにおいて重要な役割を果たしています。これらの成果として、北朝鮮での霊通寺跡発掘調査、チベット・ポタラ宮での写本調査と『維摩経』『智光明荘厳経』のサンスクリット写本の発見などが挙げられます。
また、一般市民も参加可能な公開講座や講演会などを開催し、仏教文化への理解を深める社会貢献活動も積極的に行っています。地域社会との連携を通じて、仏教の教えを身近に感じてもらう機会を提供しています。
綜合仏教研究所は、設立以来の伝統を継承しつつ、現代社会の要請に応じた新たな研究領域を開拓し、仏教の智慧を未来へと繋ぐことを目指しています。学術研究と社会貢献を通じて、より良い社会の実現に寄与していきます。
カウンセリング研究所は、新制大学移行時の正大制度審議委員会の社会事業研究所の設立という将来構想に基づき、昭和38年(1963)に設立され、以来、臨床心理学・カウンセリング心理学を基盤に、現代社会の多様な心の課題に対応できる専門性の高い人材育成と社会貢献を目指しています。質の高い研修プログラムを提供し、臨床心理の基礎から応用まで段階的に学ぶ機会を提供。認定心理士、臨床心理士、公認心理師などの資格取得を支援するとともに、大学院との連携を通じて、より高度な専門知識と実践スキルを習得できる環境を整えています。
また実践的な学びの場として、公開事例研究会を開催し、理論と実践を結びつける機会を提供。所内には研究室や相談室を設置。経験豊富な教員による事例検討会やスーパービジョンを通じて、研究者・実践家としての成長をサポートする体制が充実しています。研究活動で得られた知見は『大正大學カウンセリング研究所紀要』等を通じて発信しています。
さらに地域社会への貢献として、学内外の相談機関と連携し、地域住民へのカウンセリングサービスを提供。ペアレントトレーニングなどの親子・家族へのケアプログラム開発にも注力。現代社会のメンタルヘルスの課題など多岐にわたるテーマに取り組み、最新の知見に基づいた支援方法の開発を目指しています。
地域構想研究所は、地域社会の多様な課題に対し、人文社会科学の知見を基盤とした実践的な研究と政策提言を行うことを目指し、平成26年(2014)に設立されました。少子高齢化や人口減少など複雑化する地域課題を深く理解し、持続可能な地域社会の実現に貢献するための研究活動を展開しています。地域社会の現状分析に基づいた調査研究、地域資源の活用、地域活性化のための政策立案などを推進。経済学、社会学など幅広い専門分野の研究者が連携し、地域課題の解決に向けた総合的なアプローチを探求しています。具体的な研究テーマとしては、地域ブランドの開発や観光振興などが挙げられます。研究成果は地域社会への成果還元を重視し、シンポジウムの開催や紀要『地域構想』を通じての公開、さらに総合情報誌『地域人』(現在は休刊)を通じて情報発信してきました。
地域構想研究所は、地域に深く根ざした研究活動を通じて、地域社会の多様な主体との協働を推進し、活力ある持続可能な地域社会の創造に貢献していきます。
エンロールメント・マネジメント研究所(EMIR)は、日本で初めてEM(Enrollment Management)とIR(Institutional Research)に関する研究を行う機関として、平成27年(2015)に設立されました。教育改革と学生支援の促進・拡充を目的とし、学生の入学前から卒業後までの一貫した情報を収集・分析・提供することで、大学の教育・研究・社会貢献およびTSRマネジメントを支援します。TSRとは、大正大学が社会に対して果たすべき責任を包括的に捉えた経営戦略です。
研究所は、EMIR部門、教育アセスメント部門、情報収集・分析部門で構成されています。研究成果は、紀要『エンロールメント・マネジメントとIR』を通じて発信されています。EMIR部門では調査分析やIRシステム研究、教育アセスメント部門ではPBL(Project Based Learning:課題解決型学習)やAL(Active Learning:能動的学修)の成果検証、情報収集・分析部門では高等教育政策やトレンド分析などを行っています。
EMIRの大きな特徴は、学生募集と地域活性化への貢献を重視している点です。地域社会の課題やニーズを理解し、地域に貢献できる人材育成を目指し、地域自治体や企業、高校などと連携しています。