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国際文化コース

カルスタ、あれこれ(11)――「自由意志」を擁護する!

はじめに

前回の内容はやや難しかったでしょうか? 今回は「心の領域は脳科学に侵食されるのか」という問題について私見を述べる、とお伝えしましたね。まず、結論から入りましょう。答えは No! です。
 今回もやや難しいかもしれませんが、それほど長くないので、頑張って読んでくださいね。

 

脳科学と宗教体験における「人称」の問題

 「人称」って覚えていますか? 英語の時間に習った、「一人称」「二人称」「三人称」というアレです。「三人称単数現在形にはs をつける」というアレです。皆さんには意外でしょうけれども、「人称」というのは、哲学の分野でも議論されています。

 今日は、「人称」という視点から、脳科学と心にかかわる問題を探ってみましょう。ここで、「一人称」というのは、自分の主観的な事柄とかかわります。そして「三人称」というのは、脳科学者が脳について語っている客観的な事柄とかかわります。

 

 脳科学と「自由意志」の問題

 1970年代にB・リベットなどの脳科学者たちは、「手を動かそう」という自由意志と、手の動きに先立つ「準備電位」――これは自発的な筋運動の際に観測されます――の時間的な関係を問題にしました。その結果、「手を動かそう」という意志は、運動準備電位が現われ始めてから数百ミリ秒(だいたい0.5秒)たって、現われることが分かりました。一言でいうと、脳の活動が起きてから、その後で、自由意志が現われるのです!

 自由意志は、「手を動かす」という運動のための「原因」ではなく、脳活動(運動準備電位出現)の「結果」として現われるのです。これをもう少し一般化して述べると、「脳活動が自由意志に先行する」「自由意志は脳活動を後追いして生じる」ということになります。

 

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 先回のブログでも登場したG・ロートは、①こうしたリベットらの実験、②われわれが選択意志にもとづく行動を行なう際に脳の中で進行している神経的プロセスについての最新の脳科学の知見、③「私が意志したのだ」という「意志の自由」の感情そのものが本人の主観的な思い込みでありうる可能性などを根拠に、「意志の自由」を否定しました。

 哲学者の中山剛史氏は、こうしたロートの主張を次のように要約しています。

ロートは「人間の主体性と志向性かつまた社会性は、人間の生物学的自然を超越している」あるいは「人間は自然や脳の機能より以上のものである」という多くの精神科学者や社会科学者たちの見解を根本から疑問視し、人間は脳によって完全に決定されており、「意志の自由は幻想である」と主張している。…ロートはこうした意味での「意志の自由」を否定し、行動をひき起こしたのは「私」ではなく「脳」であり、私の行動は脳のプロセスによってすべて決定されているという脳決定論を主張する。(「現代の〈脳神話〉への哲学的批判」)

 われわれ人間には「意志の自由」「自由意志」がない。われわれの行動や振る舞いといったものは、すべて物体である「脳」によって、あらかじめ決められている。こんなふうに言われると、悲しくなりませんか? しかし、最初にふれた「人称」が、悲しくなる人たち救ってくれます。

 

操縦室のパイロット

さてここで、興味深い隠喩を紹介します。飛行機を操縦しているパイロットと、その飛行を見ている飛行機の外の人たちの話です。写真の操縦室はやや小さすぎるかもしれませんが、パイロットは、操縦室の計器類の状態を順調な状態にすることに集中しています。

 

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           Photo by (c)Tomo.Yun (http://www.yunphoto.net

 

パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路、ないし計器から導かれる航路にしたがって進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことといえば、計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表そうとしている行為とはまるで異なっているからである。(野家伸也氏訳)

この隠喩が示していることは、パイロットの見事な飛行や着陸は「外部の観察者」の視点からなされた記述にすぎず、計器類を見守っているパイロットは操縦室の「内部」でそれとはまったく別の行為を遂行している、ということです。パイロットの操縦室は完結した空間です。そこでは、野家氏が強調しているように、「〈外部の観察者〉が記述する〈行為〉とはまったく異なる作動の連鎖が生じており、その連鎖がかたちづくる領域は〈外部の観察者〉が確認する〈客観的〉空間の中に位置づけられるものではない」のです。やさしくいうと、飛行機を操縦しているパイロットと飛んでいる飛行機を見ている人たちは、別の世界に生きている、とでもいえますかね。

 

脳科学と人称の問題

ここで、先のロートの「意志の自由の否定」の議論にかえりましょう。

ロートに対する哲学的な批判の論点の1つは、中山氏の表現をかりれば、「〈私ではなく、脳が決断する〉という命題はカテゴリーミステークを犯している」というものです。つまり、次のようなことです。

ラーメンが「美味しい」というときに使われるような心の状態を述べる言葉や、「今日はラーメンを食べよう」といった「自由意志」がもたらす事柄を述べるときに使用する言葉は、あくまで「主観的な一人称」の観点からのものです。それを、脳科学の「客観的な三人称の」観点から、「脳が〈美味しい〉と感じる」「脳が意志する」「脳が決断する」などと語ることは、言語論的に誤りなのです。一人称の「主観的な観点」からの記述と、三人称の「客観的な観点」からの記述とは、断絶しているのです。

脳科学の心についての説明や記述は三人称の観点に立つのに対して、実際に考えたり体験したり意思したりしている者の自己了解や体験記述は一人称の観点に立つものです。そして、両者の間には架橋できない断絶があります。だとすれば、仮に自然科学的な脳科学が進歩し、心の世界での出来事を自然科学的に説明し尽くしたとしても、それを一人称の世界に当てはめようとすることは、言語論的な誤りにすぎないのです。

それでも、自然科学者はいうかもしれません――「だから人文系の学問はダメなんだ。主観的なものはダメだということがわかっていない!」。しかし、そういう人にはこう言えば、すべては解決します――「人文系の学問はダメだというあなたの主張も主観的表現=一人称による表現なのですよ!」「あなたもノーベル賞を受賞したら、心の底からから嬉しいでしょう! あなたの脳が嬉しがっているとしたら、あなたの人生はいったい意味があるのでしょうか?」。
 

おわりに

今回も難しくなってしまいましたね(苦笑)。次回は、「私たちは周りの物事をそのまま認識したり体験したりできるのか」という問題について考えてみたいと思います。アップは、以前にお約束したとおり第1金曜日ですから、10月7日ですね。1週間後ですね…。

                                  星川啓慈

 

【参考文献】前回と今回のブログを書くにあたっては、次の文献を参考にしました。

・澤口俊之「脳と心の関係について――A.神経科学の立場から」、『脳と行動』臨床精神医学講座第21巻、中山書店、2003年。

・中山剛史「現代の〈脳神話〉への哲学的批判――「意志の自由」は幻想か」、中山剛史・坂上雅道編『脳科学と哲学の出会い――脳・生命・心』玉川大学出版部、2008年。

・野家伸也「ヴァレラの反表象主義的認知観」、同書。

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