学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

カルスタ、あれこれ(12)――ものごとは「ありのままに」認識できない?

はじめに

 先回と先々回のブログはかなり難しかったようなので、今回は、少し優しい内容にしたいと思います。まず、「心」をめぐって、最近の脳科学者たちがどのように考えているかを見てみましょう。そのあとで、V・マウントキャッスルという脳科学者の見解を、さらにA・ニューバーグという脳科学者の研究成果を紹介します。その後で再び、先回の「一人称」と「三人称」の問題に立ち返ってみましょう。

 

脳科学は人間の「心」についてどこまで解明しているのか?

 現在、脳科学は非常な勢いで進歩しているようですが、私たち人間の「心」や「意識」については、どの程度解明されているのでしょうか? 私見では、脳科学の種々の分野において、個々の細かな研究は進展しているようでも、全体として、「心」や「意識」の本質については、未だによくわからないことが多いようです。

最新の『脳の事典』(成美堂出版、2011年)にもこうありました――「脳研究が著しく進展しているとはいえ、ヒトの創造性や意識の在りかといったテーマ〔心に関わる問題〕に関しては実験方法さえ見つからず、解明にはほど遠いのが現状である」。

 他にも、著名な脳科学者の言葉を拾い上げておきましょう。(1)『脳の中の幽霊』(角川書店)という本を書いたラマチャンドランは「200年にも及ぶ研究にもかかわらず、〔脳科学は〕人間の心に関するもっとも基本的な疑問にまだ答えきれていない。例えば、意識とは何かという疑問は、真に大きな疑問として残されたままになっている」と語っています。(2)また、『無意識の脳―自己意識の脳』の著者ダマシオは「もしも心を解明することが生命科学の最後の未踏領域であるならば、意識は心の解明における最後の神秘であるように思われる。解決は不可能であるとみなす者もいる。今のところ、神経生物学的な説明は不完全で、説明にはギャップがある」と論じています。(3)さらに、先回のブログにも登場したリベットは「物理的な現象のカテゴリーと主観的な現象のカテゴリーとの間の説明のつかないギャップがある。物理的に観察可能な世界の決定論的特性に基づいて主観的な意識の機能や出来事を説明することができるという想定は、思弁的な信念であって、科学的に証明された命題ではない」と述べています。

 まあ、「心」や「意識」というのは、生命科学の最後の未踏領域であり、まだまだ神秘のベールに覆われている、というところです。

 それはそれとして、さらに、脳科学者の見解を見ていきましょう。

 

私たちは身の回りの事柄を「そのまま」認識できない?

私は授業で毎年「対象をありのままに認識したり体験したりすることはありえない」と教えています。よく言われるように、心を曇りや歪のない「鏡」のようにして、周りの物事をそのままの姿で写し取ることはできない、ということです。

 

howa01.gif

 

このことを脳科学に関連づけて述べると、私たちが「外界」を認識/経験するとき、感覚器官をとおして得られた情報を脳内過程で処理したものを認識/体験しているのです。このことについて、マウントキャッスルは、「知覚」をとりあげた論文において、次のように主張しています。

誰もが周囲の世界の中にじかに生き、物や事象をありのままに感じ、実在する現在に生きていると信じている。私の主張はこれらが知覚の幻影であるということである。なぜなら、われわれの一人ひとりが200万~300万本の感覚神経線維で、「外界のそこ」にあるものと連絡している脳に由来した世界と対面しているからである。これらの線維はわれわれにとって唯一の情報経路であり、実在への生命線である。この感覚神経線維は高い忠実度をもつ記録器ではなく、ある刺激の特徴を強調して、他のものを無視するものである。中枢のニューロンは求心性の神経線維に関しては噓つきであって、「外界」と「内界」との緊張した、しかし同一形態の空間的関係の中で、質と量の歪みを許容するから、けっして全幅の信頼はおけない。感覚は実在の世界からの抽象の産物であって、複製ではないのである。(訳文は、大村裕氏による) 

 脳科学者にこのように言われると、「物事をありのままに認識する」ことを強調している人たちは、どのように答えるでしょうね? そうした可能性は全くない、ということになるのですから、心中穏やかでいられないかもしれません。いずれにせよ、私たちが「周囲の世界の中にじかに生き、物や事象をありのままに感じ、実在する現在に生きていると信じている」と信じていても、マウントキャッスルは「これらは知覚の幻影である」と主張しています。

 

瞑想中の体験は空間認識能力が落ちた結果?

私も時どき、健康上の理由から簡易瞑想を行っています。世界には多くの瞑想方法がありますが、「瞑想している自分と自分を取り囲む空間とが一体となったような状態になる」ことが、けっこうあるようです。私もたまにそういう体験をします。禅仏教との関係でよく言われる「主客未分」――認識する主体と認識される客体とが明確に分かれているのではなく、一つになっているような状態――という事柄とも、関係があるかもしれません。

『脳はいかにして「神」を見るか』(PHPエディターズグループ)という本を書いたA・ニューバーグたちは、瞑想時の脳内における血流変化を研究しました。その研究によると、瞑想時には、空間認識に関与するとみられる「左上頭頂領域」の血流量は減少するといわれます。写真を使用しながら説明すると、おおよそ次のようになります。写真は見にくいかもしれませんが、脳の血流量を色で表す写真です。ポイントは、左下の写真の矢印がさす「頭上領域」(Parietal Lobe)の血流量が、左上の写真の同じ部分の血流量と比べて減少している(緑色の面積が少なくなっている)ということです。

 

Comparison of Baseline and Meditation Images.jpg

 

瞑想時、前頭葉の血流は左右とも増えています(右上の図がベースライン時、右下の図が瞑想時)。しかし、左上頭頂領域の血流はむしろ減少しています(左上の図がベースライン時、左下の図が瞑想時)。

これは、次のことを意味しています。左上頭頂領域は、空間の位置関係を統合する機能を持っているために、ここの領域の機能が落ちることによって、空間に対する自らの位置感覚が変化する、つまり、自分の身体の正しい位置が明確ではなくなるということです。一言で述べると、瞑想することにより左上頭頂領域の血流が減少し、空間に占める自らの位置感覚が不明確となるのです。

「瞑想している自分と自分を取り囲む空間とが一体となったような状態になる」というのは、脳科学的にいうと、「瞑想中のそうした体験は、左上頭頂領域の血流が減少し、左上頭頂領域が関与する空間認識の機能が落ちた状態である」ということになります。これでは、瞑想体験もなんとなく有難味がなくなってしまいますね…。

 

「人称」の問題にかえって

上で、脳科学者の見解を2つ紹介しましたが、彼らの記述は、いうまでもなく、「脳内過程」にかかわる三人称的な記述です。自然科学が三人称的に説明するものと、私たちが一人称的に実際に感じるものとの間には、質的に異なるもの/次元を異にするものがある。これが私たちの実感ですよね。脳科学以外の例をあげると、たとえば、物理学が記述する世界には、私たちが体験/認識する「色」も「音」も「冷暖」もありません。そこでは、「色」は光子の振動数に、「音」は粗密波の諸性質に、「冷暖」は分子の運動になってしまいます。このように、私たちの体験記述と物理学の客観的記述とは断絶しているのです。

そうだとすれば、やっぱり、脳科学者が「われわれは対象をありのままに認識することはできない」とか「瞑想中の自己と周囲の空間との一体感は、脳の空間認識の機能が落ちた状態である」などと言っていても、私たちは一向に気にする必要はないのかもしれません。

実は、私はこの「断絶」を「言語」という視点から「架橋」する試みを行っているのですが、なかなかうまくいきません。現時点では、「架橋」よりも「断絶」のほうを選択せざるを得ないのが、私の実情です。

 

おわりに

次回からは、著名な哲学者のK・ポパーとノーベル医学・生理学賞を受賞した脳科学者のJ・エクルズの大著『自我と脳』に話をうつし、「心脳相互作用論」という立場についてお話します。そして徐々に、脳科学と文化を結びつけた話へと展開していきたいと思っています。ご期待ください。

次のブログのアップは、第3金曜日、1021日です。

 

星川啓慈

 

【関連文献ならびに謝辞】

V. B. Mountcastle, “The View from Within: Pathways to the Study of Perception,” Johns Hopkins Medical Journal, vol.136, 1975, pp. 109-131.

・ニューバーグたちの論文の提供とその解説は、旭川医科大学の杉岡良彦医師によるものです。記して感謝申し上げます。A. Newberg et al., “The Measurement of Regional Cerebral Blood Flow during the Complex Cognitive Task of Meditation: A Preliminary SPECT Study” in Psychiatry Research: Neuroimaging Section, vol. 106, 2001, pp. 113122.

GO TOP