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戦争と文化(7)――戦争における「不確実性」と「軍事的天才」: クラウゼヴィッツの『戦争論』から(1)

戦争における「不確実性」と「軍事的天才」:

クラウゼヴィッツの『戦争論』から(1)

 

はじめに

この「戦争と文化」のブログの第1回目から第4回目までは、M・クレフェルトの『戦争文化論』をもとにしながら、議論を展開しました。じつは、彼が念頭において批判した従来の戦争研究は、今回取り上げるカール・フォン・クラウゼヴィッツの戦争観を支持する人たちのものなのです。クレフェルトは『戦争文化論』において、クラウゼヴィッツにかなり言及しています。おそらく、個人名としては、もっとも頻繁に言及されている人物でしょう。

 

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クラウゼヴィッツの妻マリーによると、彼は「2、3年後に忘れ去られないような、軍事学に関心がある人ならばすべての人が一度ならず手にしようとするような本を書くこと」を願っていました。「2、3年後」ではなく、『戦争論』(Vom Kriege)の出版後180年たっても、クレフェルトは、たとえ批判の対象であったとしても、クラウゼヴィッツを重視しています。

クレフェルトのみならず、戦争や軍事について書かれた世界中の研究書の多くが、彼に言及しています。わが国においても、森鴎外の『大戦学理』(軍事教育会、1903年)――さすが鴎外ですね、こういう仕事も残しているのですね!――をはじめとして、何種類もの『戦争論』の翻訳が出版されています。また、「日本クラウゼヴィッツ学会」という学会が存在しているほどです。

『戦争論』の訳者の1人である川村康之氏は「『戦争論』は、現代においても生きている。というよりは、現代になってはじめて正しく理解されるようになったということができる」と論じています。それほど、クラウゼヴィッツの『戦争論』は重要な著作なのです。いうまでもなく、200年以上も前の戦争と今日の戦争はかなり異なっています。しかし、「戦争哲学」の古典中の古典としての『戦争論』は、現代においてもその輝きを放っているといっていいでしょう。

もちろん、クラウゼヴィッツの評価にはいろいろとあります。ヒトラーは1945年4月に自殺を図りますが、その直前に遺書を書きました。クラウゼヴィッツは、その中で名前を挙げられていた唯一の人物だったということです。クラウゼヴィッツの政治哲学が「〔ヒトラーの〕全体主義国家の政治哲学の基礎になった」という理由で、英国人のジョン・キーガンは『戦争と人間の歴史』(War and Our World, 1998)で、「これまでに考え出されたなかでも、最も邪悪な戦争の哲学を唱えはじめた」と酷評しています。キーガンについては、このブログでもいずれ取り上げることになるでしょう。とりあえず、クラウゼヴィッツを評価しない学者もいることだけは、念頭においておきましょう。

 

クラウゼヴィッツの生涯と『戦争論』という書物

 クラウゼヴィッツは、1780年7月にプロイセン(現在のドイツ)で生まれ、12歳にしてプロイセン軍に入隊し、早くも13歳で戦争の厳しい実情を生身によって体験しました。彼は、参謀本部制度の生みの親として知られるシャルンホルスト将軍(17551813)に注目され、この時の縁が彼の生涯に大きな影響を与えることとなります。クラウゼヴィッツには戦闘体験のみならず、教養もあり、文学・哲学・数学・教育学なども学んでいます。そうした中でも、歴史と軍事の研究にもっとも興味を覚えたようです。183111月、51歳の若さで、コレラのために死去しました。

 

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 クラウゼヴィッツは、マリーという素晴らしい伴侶に恵まれましたが、決して恵まれた生涯を生きたわけではありません。彼女によると、「彼の一生は、本当に絶え間のない辛苦・不幸の連続でした」(友人への書簡)、「彼が、最後の溜息とともに、重荷を背負ってきた一生だったとつぶやいたことは、私の胸を締め付けました」(友人への書簡)。

 『戦争論』の第1編ではかなり理論的・哲学的な議論が展開されており、全編をとおして論述方法は弁証法的です。つまり、「防御」を論じたとすると、今度は「攻撃」を論じるというように、二項対立的に項目をあげ、その両者を勘案しながら議論を進めていきます。また、『戦争論』には「真理を追究することに努力を惜しまない徹底した態度」(川村氏)が見られますし、戦争という複雑な社会現象を論じるにあたって、人間の精神、不確実性、偶然、運/不運など、議論になじまないものも敢えて議論の対象としています。戦争に「本質」があるとしたら、『戦争論』は戦争の本質に肉迫しているといっていいでしょう。だからこそ、名著として今日まで読み継がれてきているのです。

 第1編第1章の冒頭を引用しておきましょう。

  われわれは、最初に戦争の個々の要素を、次いで戦争の個々の部分を、そして最後にそれぞれの内的関係を観察するために全体を考察する。このように、簡単なものから複合されたものへと進むわけである。しかしながら、まさにここで全体の本質に目を向け始める必要がある。というのは、すでにここから部分と一緒にいつも全体が考察されねばならないからである。(強調はクラウゼヴィッツ)

ここを読むだけで、いかに体系的に・哲学的にきちんとした書物を著わそうとしているかが、伺い知れます。戦争の要素から部分へ、さらに全体へと考察が進み、戦争の本質を知るために、部分と全体の双方に目配りをするというのです。

 

戦争における「不確実性」と「天才」

 クラウゼヴィッツも述べているように、またわれわれでも容易に察しがつくように、戦争は「不確実性」をともなうものです。天候や気候、予想と異なる敵の行動、味方同士の情報伝達の齟齬、政府と軍の意見の不一致、国際社会の介入など、戦争は予測できない種々の事態などに取り囲まれています。クラウゼヴィッツによれば、「軍事行動がくり広げられる場の4分の3は、多かれ少なかれ、大きな不確実性という霧の中に包まれている」のです。

  戦争は偶然を伴うものである。人間の行動において、戦争ほど偶然という外来物にそのような活動の余地を与えるものはないにちがいない。というのは、人間の行動でそんなにすべての面で偶然と絶えず接触しているものはないからである。偶然は、あらゆる状況の不確実性を増大し、また事件の経過を混乱させている。

このような中で、適確な判断によって「真実」を見出すためには、「聡明で鋭敏な知力」が要求されることは想像に難くありません。

 こうした偶然や不確実性に取り囲まれながら、戦闘を首尾よく遂行してゆくためには、精神には2つの特性が不可欠です。第1に「ますます募る暗黒のなかでも内部の光明を燃やしつづけ、真実に導く知性」が、第2に「このかすかな光明を頼りに従っていく勇気」が必要とされます。前者は、フランス語で「クゥ・ドウィユ」(真実を迅速・適切に把握する能力)と表現されるものであり、後者は、「決断」です。われわれ人間は感情的な動物で、とりわけ危急に際しては、思慮よりも感情のほうに左右されます。これら2つの精神的特性によって、感情に流されないようにしなければなりません。

  戦争に際して、われわれの兄弟および子どもの幸福、われわれの祖国の名誉と安全を託しうるのは、創造的であるよりもむしろ精到な思慮に富む人物、一途にあるものを追究するよりもむしろ大勢を包括的に把握する人物、熱しやすいよりもむしろ冷静な人物である。

 司令官に適した人間は、芸術家肌の人間でもなく、1つのことを目指して突き進んではいるけれども視野の狭い人間でもありません。冷静で、種々の複雑な事柄を瞬時にして判断するような眼力をもったタイプの天才でしょう――もちろん、優れた司令官にはこれ以外の資質も要求されることはいうまでもありません。

 

戦争論.jpgクラウゼヴィッツが『戦争論』の中で、軍事的天才として頻繁に言及するのが、フリードリヒ大王(=フリードリヒⅡ世、17121786)とナポレオンです。王はフルートにも堪能で芸術的才能もあったのですが、軍事的才能にも恵まれていました。「大王」と呼ばれるのは、畏敬の念がこめられているからです。音楽や軍事のみならず、種々の方面の才能に恵まれていた類まれな天才です。

ここで、1760年のフリードリヒ大王の戦役「トルガウ会戦」に目を転じましょう。この戦役は、戦略上の傑作と評価する人も多いようです。クラウゼヴィッツは「王が最初に敵国オーストリア軍の名将であるダウンの軍の右翼を、次にその左翼を、あるいは再び右翼を迂回しようとしたことなどに驚嘆してはいけない、そこに王の深い英知を見出してはいけない」旨を強調しています。多くの人たちはそうした王の行動を高く評価したいのでしょうが、クラウゼヴィッツはこのように論じます――「われわれは、何よりも、その限られた戦力をもって遠大な目標を追究していた王が、この戦力にふさわしくないことを企てず、目標の達成にちょうど必要なだけのことをした王の英知にこそ簡単すべきである」(強調はクラウゼヴィッツ)。ここに、王の「大勢を包括的に把握」し、「熱しやすいよりもむしろ冷静な」側面が端的に現われているといえるでしょう。

 クラウゼヴィッツによれば、フリードリヒ大王のいかなる戦争指導にも、均衡を保った抑制力が働いているそうです。しかし、この抑制は、決して活力を失ったものではなく、事態が急を要する時には、驚くほどに高揚し、さらに次の瞬間には、再び平静に還ることができたといわれています。さらに、クラウゼヴィッツによれば、王は、虚栄心や名誉心、あるいは復讐心に駆られて、この道から外れることは一度もなかった、といいます。2人は同じプロイセンの人間ですから、やや贔屓の引き倒しの感がないでもないですが、いかなる資質が司令官に求められるかは、よく理解できますね。

 

クラウゼヴィッツと現代の戦争

何といっても、クラウゼヴィッツが生まれたのは1780年で、今から230年以上も前のことです。彼は戦車や戦闘機も知らず、原子爆弾や核ミサイルや原子力空母やイージス艦や無人殺人兵器など、コンピュータやテクノロジーの粋を多用するさまざまな最新兵器など知る由もありませんでした。ですから、「クラウゼヴィッツの『戦争論』など、古すぎて話にならない」という意見もあるでしょう。さらに、国際的な政治情勢も当時よりもはるかに複雑です――とはいえ、当時のヨーロッパでは今よりも国の数が多かったので、話を当時のヨーロッパに限定すれば、異論もでるかもしれません。

しかしながら、戦争一般については、次のようなこともいえるのではないでしょうか。一方では、コンピュータやテクノロジーを駆使した情報収集が発達し、気象や敵の位置などいろいろな物事についての精確な情報が瞬時に入手できるようになりました。つまり、不確実性が減少してきたというわけです。そのうえ、使用できる兵器も多様化し、種々の戦闘に対応できるようになりました。しかしながら、その一方で、戦闘方法や国際政治が複雑になればなるほど、多量で大量の情報がもたらされ、情報分析や戦争計画の立案も複雑になり、クラウゼヴィッツの時代とは異なった「不確実性」が生まれてくることになります。

そうすると、過去においてと同様に、現代おいても「不確実性」は存在し続けるのであって、不測の事態への対処は依然として司令官の中心課題でありつづけるでしょう。戦略や戦術の構想ならびに戦闘方法の決定などは、いつの時代になっても、最終的には、人間による意思決定にもとづきます。だから、最終的に、いつまでも不確実性は残るわけです。

また、ウィキペディアの「戦場の霧」(作戦・戦闘における不確定要素)では、情報収集の速度と意思決定の速度の齟齬や、複雑な地形での戦闘について、以下のような指摘がなされています。

現代では情報革命に伴いGPSなどを用いた現在位置を把握するシステムが整い、かつ人工衛星、レーダー、センサーなどの技術発展によって効率的に敵情を確認することが容易になっており、戦場の霧を払拭することに貢献しているが、それでも戦場の霧が完全になくなった訳ではない。情報革命によって向上した情報収集の速度に意思決定の速度が追随できないという問題も指摘されており、特に市街戦などの複雑な地形における戦場の霧を完全に払拭することは、現代の技術を用いてもほぼ不可能であると考えられている。

 そうだとすれば、司令官以下の指導者たちの意思決定が重要なことに、今も昔も変わりありませんね。

 科学・技術が進歩して、どんなに戦争のやり方が変化しても、最終的な意思決定を行うのは人間です。そして、この意思決定にもとづいて戦争が行われるのです。だとすれば、クラウゼヴィッツの「軍事的天才」という概念は参考にすべきものだと思います。もちろん、今回お話しできたのは、そのごく一部に過ぎません。

 

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 おわりに

 次回のブログでも、引き続き、クラウゼヴィッツの『戦争論』についてお話しします。テーマは「防御」です。防御といっても、単純に「守る/防ぐ」ことだけではありません。防御の中にも、攻撃の要素があるのです。また、われわれの常識とはだいぶ異なった見解が述べられています。

 次回のアップは夏休み中ですが、このブログには休みはありません。9月1日をお楽しみに。

 

【参考文献】

(1) ウィキペディア「戦場の霧」。

(2) J・キーガン(井上堯裕訳)『戦争と人間の歴史――人間はなぜ戦争をするのか?』刀水書房、2000年。

(3)C・クラウゼヴィッツ(日本クラウゼヴィッツ学会訳)『戦争論――レクラム版』芙蓉書房出版、2009年、第1編第3章「軍事的天才」、第3編第1章「戦略」。なお、『戦争論』はクラウゼヴィツ自身が完成することはできなかった。そのため、幾つかの版本がある。訳書の底本となったのは、明記されているように、レクラム版である。

(4) M・クレフェルト(石津朋之監訳)『戦争文化論(上・下)』原書房、2010年。

 

 

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