学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

カルスタ漫画・アニメ・ゲーム研究会「トワイライト」の活動報告㉓


前回に引き続き、昨年度の活動の新しい報告をご紹介いたします。


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・MAより
私が一番面白いと思ったところは、完璧な英語を話す主人公イライザのことを若手言語学者が「ハンガリーの女王だ」と見当違いな分析をしたところでした。その理由が「あんな綺麗な英語を英国人は話すことができない」というものでした。
母国語だからこそ、美しく話すことができないとは何という皮肉だろうと思い面白かったです。しかし、言われてみればわからなくもありません。
私は日本語が母国語で、日本語しかまともに話すことができません。それでも、「本当にまともに話せているのか?」と聞かれたらたぶん、話せてはいないでしょう。
倒置法は使うし、略語は使うし、説明に説明をつけたして長ったらしく話すし、主語がなかったり、目的語が消えたり、と美しく文法に添ったわかりやすく理解しやすい日本語を日常で使ってはいません。なぜなら、そのような日本語でも相手に通じるという、言葉の手の抜き方を知っているというのが一要因にあるのではないかと考えます。
普段から手を抜くことが癖になっているから、意識していなくとも話せるから、母国語を美しく話すことはできないのだろうと思います。
逆に母国語以外の言葉を覚えようとしたら、一から学んで、相手に伝わるようにきっちりと文法にのとって話すことを最初に身につけることが多いかと思います。いつぞやに少し交流した留学生の方はとても丁寧な日本語を使っていたことを思い出します。
ふと、母国語を手を抜いて使えるということは、その言語を支配しているということだろうかと思ったりします。
ですが『マイ・フェア・レディ』を今一度振り返ると、むしろ言語に支配されているから、イライザは「ハンガリーの女王」に周囲から間違われたのではないだろうかとも思うのです。
『マイ・フェア・レディ』は私たちが母国語を支配しつつも、母国語に支配されているという相互関係を描いた側面があると感じました。


・MKより
映画『マイ・フェア・レディ』(1964)は、原作である『ピグマリオン』と、異なる結末を迎えたことが個人的に印象に残り、疑問を持った点です。
原作では、去ったイライザが教授のもとに戻ることなく物語が終わるのに対し、映画ではイライザが戻ってくるという結末を迎えました。
原作も映画も共通して、当時のイギリス階級社会の風刺を描いたようですが、なぜ結末が異なったのでしょうか。
私はそれぞれの作品を描いた時代に答えがあると考えています。原作は、支配階級であるヒギンズ教授という人物の「失恋」を描くことで、イギリスの階級社会を批判したのだと思います。
もしそうだとすれば、映画での結末の意味も、時代に合わせた描き方をしたのかもしれません。
なぜなら、映画が公開された1964年時点で、原作が書かれた背景である当時のイギリス階級社会を改めて批判する意味はないように推測できるからです。
そうすると、1度は離れた男女が、最終的に再開を果たし、恋を実らせるというロマンチックなラストを期待する観客のニーズに応えたかたちが、映画の結末だったのではないでしょうか。
私の結論は、原作の結末を変更することで、社会的に受け入れられやすい作品に仕上げたのだと感じました。
ただし、物語的にみれば、映画の結末は、ヒギンズ教授を成長させるストーリーではなかったとも解釈しました。
映画はヒギンズ教授がイライザへの愛を自覚しても、原作のようにイライザへの恋心と、失恋の悲しみを一生背負っていくことはないからです。


・MHより
今回のトワイライトでは『マイ・フェア・レディ』を見ました。この映画で一番印象に残っているのは、主人公がきれいなイギリス語を話すと、イギリス人がイギリス語をきれいに話せるわけがない、彼女はハンガリー人の上流階級の人である、と噂が流れたシーンです。自国語を自国民がきれいには話せないということに対して、確かに、と思ってしまいました。
私は日本生まれ日本育ちですがきちんとした日本語を話しているとはいいがたいです。しかし、それでも言葉は通じてしまうのです。日本に暮らしているからこそ、日本語が曖昧になる。
いつもどれだけ曖昧なまま言葉を使っていたのか考えさせられた作品です。

 

以上、トワイライトの報告でした。

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同じ作品を観ても、考えることは人それぞれです。
仲間と意見を交換し、共有することで深まる考察もきっとあることと思います。

トワイライトの活動に関心のある方は、ぜひ金曜日の5時間目に2号館6階まで足をお運びください。



★副手 高野
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