学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

カルチュラルスタディーズコース

トワイライト同窓会の様子

8月25日に2018年3月に卒業した卒業生が「トワイライト同窓会」と開きました。
(「トワイライト」は学生たちによる自主的な研究活動の名称です。)
同窓会にて卒業生たちが視聴した『未来のミライ』と『映画 刀剣乱舞』の感想が届きましたので、二回に分けてご紹介します。

今回は『未来のミライ』の感想文をご紹介します。

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こんにちは。

カルチュラルスタディーズコース(現:国際文化コース)2017年度卒業生のK.Mです。

毎週金曜日に開いていた皆で映画を見て議論し合う「トワイライト」の同窓会を825日に開催しました。今回、視聴した作品は『未来のミライ』と『映画 刀剣乱舞』の2本です。みんなと集まって映画を見て、思い思いに語る(議論する)のはやはり楽しいです。話もすすめば、お菓子もすすむ、すすむ…。みんな口を揃えて「学生時代に戻ったみたい」と言っていました。

さて、学生時代に戻ったということで、この気持ちを忘れないために感想文を提出してもらいました。忙しい中、参加者全員しっかり書いてくれていて感謝感激です!さっすが!

せっかく書いてもらったので、全員の感想分の全文を掲載させていただきたいと思います!ぜひ、見てみてください。


●M.Aさん
 私はいったい何を見せられたのだろか。確かお母さんだかが「子どもって気づかないうちに成長しているね」って言った言葉がすべてなのだろうと思う。子どもの時の子どもの世界。庭のあの木は何なのかなんてことは子どもにとってはどうだっていい。気がついたら成長しているのだ。子どもの時にだけ見える世界があって経験があって。お兄ちゃんになりたいわけではないけど気がついたらお兄ちゃんっていう肩書き背負って責任を果たさないといけない。親はそれを成長だと言うのだろうな。

●M.Kくん
 本作はくんちゃんの成長を描き、最終的に未来ちゃんの兄であることを自覚する物語となっていました。視聴前は、タイトルから未来の妹と未来を冒険する物語をイメージしてましたが、終始くんちゃんを中心とした物語だっため、未来のミライちゃんの印象はどちらかというと薄かったかもしれません。また、なぜ、未来ちゃんは幼少期のくんちゃんのもとへ現れたのか気になりました。
 「婚期が遅れるため、ひな壇を片付ける」という目的を語ってましたが、くんちゃんの元へ現れる理由としては弱い気もしました。未来のくんちゃんも現れ、やさぐれたような人物として登場してます。そういった描写から「高校生時代(?)の未来ちゃんとくんちゃんはお互い仲悪いんじゃないか?」「関係性を変えるために未来から来た?」などなど鑑賞後にモヤモヤ考えました。(まだモヤモヤしてます…)

●N.Sさん
 私はこの作品を観る以前は、細田監督が作ったこの作品は親子のためのものだと思っていましたが、観ていく中で、これはむしろ親のための作品なのだと思うようになりました。もしくは親に対する警鐘なのではないでしょうか。
 子供であるくんちゃんはどこか親の見ていないところで、冒険をしたり、親ではない大人に教わったりすることで、知らず知らずのうちに成長していきます。くんちゃんが成長していくように見えるシーンは、親が見ていなくてもこうやって子供は成長するから大丈夫なのだ、と思いたい親のための理由の塊のように思えてなりませんでした。もちろん親は親なりの理由があって子供を叱ったり、子供の世話をしながら自分の仕事もこなさなければいけません。しかしそんな大人の事情をくんちゃんはまだ理解できません。急に親や祖父母の注目を一身にうける未来ちゃんに嫉妬したり八つ当たりしたりするくんちゃんが拗ねてどこかに行ってしまっても、親がくんちゃんを探したり、くんちゃんのフォローをする描写があまりにも少なかったことも印象的でした。探しに行ってフォローしないと大変なことになるとも思っていないようでした。結局、ひとりぼっちの国に行きかけたくんちゃんは、自己の証明を迫られて無事に帰ってくることができましたが、本来は親が迎えに行かなくてはいけない場面だったはずです。自己の証明もままならない子供は親の目の届くところに置いておかないとひとりぼっちの国に送られてしまう、もしくは知らない子に変なことを吹き込まれてしまって、わがままなだけではなくさらに悪い子になってしまうというメッセージを私はこの作品から受け取りました。

●N.Nさん
 
人がアイデンティティを獲得する過程というのは、自主的であればいいものですが、多くはそうではないのかなと思う話でした。この物語は「くんちゃんがお兄ちゃんになる話」ではなく「くんちゃんがお兄ちゃんという属性を与えられる話」。くんちゃんは作中で「嫌だ」「好きくない」を連呼します。両親はそれを受け止めないのでくんちゃんは両親と一緒の時には先に進めない立ち止まったままになります。しかし犬のゆっこやミライちゃん、曾お祖父さんなど、別の大人がくんちゃんを受け止めて前へ進めるように引っ張ってくれます。くんちゃんはそのおかげで成長し、ミライちゃんのお兄ちゃんになることができますが、すべて与えられたもので自主的に獲得したものではありません。そのさまは両親から見れば「子供はきづかないうちに成長するんだなあ」となるし、大人になったくんちゃんもきっと覚えてはいないんじゃないかな、と思いました。

●N.Mさん
 題こそ『未来のミライ』だが、題で提示されているほど未来のミライが頻繁に当時するわけではない。なぜ題は『未来のミライ』なのだろうか。
 『未来のミライ』は、くんちゃんが「自分はミライの兄だ」と認識するまでの物語だ。くんちゃんはその道中で、犬のゆっこ、未来のミライ、幼き日の母、若き日の曾祖父に会う。くんちゃんは彼らとの出会いを経て、終盤には少し成長した姿を見せる。
 彼らはくんちゃんの遊び相手になり、面倒を見てくれるが、その中で未来のミライだけが別の役割も併せ持っている。ミライ以外の三人はくんちゃんが時空を越えた先に元からいた人であるのに対し、彼女だけは彼を見つけに来る人だ。ミライはくんちゃんの手を取り、有るべき場所へと彼を連れ帰る。時系列的にはくんちゃんが「自分はミライの兄である」と認識する方が先だが、そう叫んだくんちゃんをミライが見つけることにより、彼は帰ることができる。言い換えれば、ミライがくんちゃんの手を取らなければ、彼は帰ることができなかったのだ。この終盤場面を見るに、人は他者に認識されなければ自己を確立することができないとも言えるだろう。
 『未来のミライ』の概要は冒頭で述べた通り、くんちゃんの物語だ。そうでありながら題が『未来のミライ』なのは、ミライがいなければくんちゃんは成長することができないからである、と考える。

●Y.Nくん
 両親からの愛で自分を形成してたくんちゃんが、「ミライの兄」という新しいアイデンティティーを獲得していく話だったなーと思います。色んな時代の家族と交流したのは、それまでは「家族」という一面だけでお母さんたちを見ていたのが、「一人の人間」として周りを認識し直したのかなーと。でもオチが「僕はミライのお兄ちゃんなんだ」だったので「結局家族に帰結してるじゃん」って今思ってる。
 あと、映画の途中途中で出てきたツバメが気になったのでちょっと調べたところ、ツバメは「家庭円満」「子宝」「故郷への帰還」などの象徴とされているそうなので、意識して描写したのかも。

●M.Kさん
 私は細田守監督作品が大の苦手である。なぜこんなに苦手なんだろうかと前々から疑問ではあったが、未来のミライを見て細田監督の映画には彼の「理想」が占める割合が大きすぎるからではないかと考えた。作品には監督なり原作者なりの“性癖”(=萌え)が散りばめられているものだと思うのだが、細田作品は「こうであってほしい(こうでないと)!!」や「コレはこうでないと!」みたいな、彼の理想が全面的に押し出され、しかもその理想にいきすぎた「夢」を振りかけて提示してくるので、私にとっては見ているとかなりツライ。
 で、例に漏れず、『未来のミライ』(以下、ミライ)も細田監督の理想像の映像化だった。しかし、ミライには細田監督作品を見ていつも思う「理想がでかい!!!!」という感想よりも、とてもちぐはぐな映画だという感想を持った。
 ちぐはぐ感の要因の一つは、間違いなく主人公のクンちゃんだ。クンちゃんの行動やぐずり方を見ると、“幼児”がかなり忠実に再現されていることが分かる。しかし、クンちゃんは「自分を認証してみろ」という4歳児にとって意味が分からないであろう質問を正確に理解するなど大人顔負けの側面を見せる。つまり、リアルな幼児のキャラクターであるクンちゃんは核の部分が大人なのだ。だから、ちぐはぐなのである。しかしミライのちぐはぐ感は、描写は幼児、中身は大人なクンちゃんだけが要因なのだろうか。
 他の細田監督作品を見れば明らかだが、彼は「家族という繋がり」を基盤に、「お母さん」「田舎」「(田舎の)おじいちゃんorおばあちゃん」に抱く理想がもの凄く高い。また、「お兄ちゃん」への理想、もっと詳しく述べると「下の子を守るためにするお兄ちゃんになるという自覚」である。例えば、クンちゃんの最終的な落とし所が「未来ちゃんのお兄ちゃん」だったこと、「サマーウォーズ」では常にクールだったカズマが妊娠中の母親を見たことで必死になるなどのシーンから細田監督は少年の「お兄ちゃんへの自覚」にも夢を見がちであることが見受けられる。一方で、女の子はこぞって「恋する女の子」になり(私は「恋する女」と「獣人間」が細田監督の二大性癖と見ている)、少年や青年はどこかの層にウケそうな感じになる。このように細田監督の理想に当てはまらないキャラクター(未婚の少女や少年・青年のキャラクター)は、いかにも消費者ウケが良さそうになる。
 さて、「家族」への理想が特に強いと見られる細田監督から理想を抱かれず、萌えも与えられないのが、「お父さん」のポジションである。「時をかける少女」ではお父さんの印象は薄いし(そもそもいたっけ?)、「サマーウォーズ」でお父さんっぽいのは最後の最後に出てきたカズマお父さんだけだし、「おおかみこども」では子供作るだけ作って早々に死んじゃうし、(見てないけど)「バケモノの子」の主人公の父親は離婚していないるという。このように細田監督作品のなかでお父さんは可哀そうになるくらい冷遇されている。
 他の作品と比較すると最初から最後まで映画に出してもらっているミライのお父さんは細田作品のなかでかなり珍しい(というか初では?)。でもこのお父さん、作中で全く活躍させてもらえない。家事育児をするシーンがあるが、失敗ばかりで今まで家事育児なんて殆どしてこなかったことが分かる。仕事に集中しすぎて4歳のクンちゃんと生まれたての未来ちゃんはほぼ放置だし、お母さんに頼まれたことは忘れてしまう。家事育児に悩むも、お母さんの悩みや心配に比べれば周回遅れである。仕事に熱心なのは悪いことではないかもしれないが、「お父さん」という面からだけを見ると良いとこなしだ。
 しかも、お父さんはクンちゃんの成長には一切関わらせてもらえない。自転車の練習の話で、買ってもらったばかりなのにも拘わらずクンちゃんは補助輪を外したがる。クンちゃんの自転車の習得レベルは補助輪を外す段階にまで達していないことは明らかだ。しかし、お父さんはクンちゃんを止めることはせず、言われるがまま補助輪を外す。止めないのなら、徹底的に補助なしの練習に付き合うのかと思うと、手伝ったのは最初だけですぐに未来ちゃんの方に注目を移し、クンちゃんに寂しさと挫折感を味合わせる。クンちゃんの挫折感をフォローし、脱補助輪のきっかけを与えるのはなぜか亡くなった母方の曾祖父(CV福山雅治)なのだ。お父さんは終始オロオロし、遠くからクンちゃんの成長を眺めるだけだ。
 また、中庭の出来事にもお父さんは蚊帳の外だ。未来ちゃん、お母さん、ペットのユッコは姿を変えて、中庭の不思議な出来事の“ゲスト”となり、クンちゃんと共に物語を紡ぐ。しかし、お父さんは中庭の出来事のゲストにさせてもらえない。というか、お父さんに大きくなっても自転車に乗れなかったという過去があるなら、上記の曾祖父の役割はお父さんが果たした方が自然なのではないだろうか。お父さん、全編を通して「お父さん」という名目以外の役割を与えれない。細田監督作品でも画面に登場する回数はかなり多いミライのお父さんだが、作中に出てこなくても物語上に支障はないだろう。
 細田監督のお母さんキャラクターは物語のなかではずっと「お母さん」だ。ミライのお母さんも物語の途中で、(働いてはいるが)仕事人になったり、女性になることはなく、常に家族のことを想っている理想的な「お母さん」なのである。しかし、細田監督がお父さんというものに理想がないためか、お父さんキャラクターは常に「お父さん」ではない。少なくともミライのお父さんは作中で、常に家族のことを想っているわけではないし、他のお母さんに褒められたときはデレデレするし、仕事人の側面など、お母さんに比べて様々な顔を見せる。物語の進行にはいてもいなくても支障はなさそうであるが、お母さんと比べるとお父さんの方がはるかに人間っぽい。細田監督の理想が詰め込まれているが故に現実にはいなさそうな「お母さん」と、理想が抱かれていないが故に現実にいそうな「お父さん」は、ある意味で住む世界を違えているといえよう。クンちゃんだけでなく、この夫婦もまたちぐはぐなのだ。そしてミライにおいて、このちぐはぐな夫婦は最も目立つ背景だ。ちぐはぐな背景でちぐはぐな主人公が動けば、物語はちぐはぐになってしまうのも当然である。

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次回は『映画 刀剣乱舞』の感想文をご紹介します。

 

★助手 髙野