学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

比較文化専攻

戦争と文化(13)――茨城県阿見町の「予科練平和記念館」を訪れて、平和について思う。

 

はじめに

 前回のブログは、哲学者カントの『永遠平和のために』をめぐる話でした。

今回は「予科練」の話です。昨年11月のある晴れた日に、私は茨城県阿見町にある「予科練平和記念館」を訪れました。予科練で生活した若者と戦争の関係について考えることにより、平和についての感性を磨いていきましょう。

 

121101_1242~01.jpg                予科練

 「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」およびその制度の略称です。予科練には、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、およそ24,000人が飛行練習生課程を経て、戦地へ向かいました。そのうち戦死者は8割の19,000人ほどにのぼります。「特別攻撃隊」(特攻隊)として出撃した練習生も多く、死者数は2600人ほどでした。

1929年(昭和4年)12月、海軍省令により「予科練習生」の制度が設けられました。主眼は「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふる」こととされ、応募資格は高等小学校卒業者で、満14歳以上20歳未満までです。教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行なわれました。

最初の年には、全国から5,807名が志願し、そのうち79名が合格しました。そして、1930年(昭和5年)6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊。競争率は、なんと73.5倍です!(註1) 今の大学受験よりもはるかに厳しいですね。戦闘機を操縦するのは、知力・体力・精神力が揃わないといけないのです。また、この厳しい試験に合格したら、戦闘機の搭乗員になれるかというと、必ずしもそうではありません。この試験の後も、厳しい選別が行なわれます。

 

日本海軍と航空機

飛行機が戦史上、初めて使用された第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まりました。「欧米列強に遅れまい」とした日本の海軍は、上述のように、「より若いうちから基礎訓練を行なって熟練の搭乗員を数多く育てよう」と教育を開始しました。期待通り、太平洋戦争に突入するまでに、このシステムによって数多くの優秀な搭乗員が養成されました。

また、「ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)という、当時の戦闘機としては世界最高峰の性能をもつものが開発されたことは、当時の日本が航空機を重視していたことの現われです。ゼロ戦には、超超ジュラルミンの開発を始めとする日本の技術力の素晴らしさにまつわる話も、数多くのこされています。ゼロ戦は、ドイツのメッサーシュミットと並ぶ名機でした。

山本五十六が指揮した「真珠湾攻撃」は、熟練の搭乗員、優れた航空機、それを運んだ空母(航空母艦)があってこその計画ならびに戦果だった、といえるでしょう。ちなみに、開戦当時、日本が保有していた空母は10隻、米海軍は7隻(うち4隻は大西洋に配備されており、太平洋には3隻)でした。

太平洋戦争において、日本の海軍は「大艦巨砲主義/巨艦巨砲主義」――艦隊決戦思想を背景として、水上艦の砲撃戦で有利となることを目指し、際限なく主砲と艦艇を巨大化させようという考え方――に拘ったといわれることもありますが、実は、航空機の重要性は正確に見抜いていたのです。ただし、この時の奇襲成功の時点、ならびに後述のマレー沖海戦後においても、大艦巨砲主義を脱することなく、伝統的な大型戦艦同士による艦隊決戦思想から抜け切れませんでした。

 

センピル大佐の率いる軍事技術団の来日

時代は前後しますが、日本の海軍は、第一次世界大戦中の連合国の海軍における航空技術を注視し、イギリス海軍が海軍航空の分野では最も進歩していると判断したようです。そこで、1921年(大正10年)年、イギリスの海軍航空技術を学ぶため、センピル大佐(当時28歳)が率いる「センピル教育団/軍事技術団」 (Sempill Mission) を日本に招聘しました。この教育団は、彼を筆頭に29名の講師で構成され、日本に18ヶ月滞在しました。イギリスから100機ほどもの航空機を運んできたそうです。そして、彼らは実に真摯に技術や知識を伝授してくれました。センピルの教え方は非常に厳しく、最初はついて来なかった者もいたようですが、しだいに彼の教えに馴染んでいったようです。

英国による軍事技術団の派遣は、「日英同盟」(1902-1923年)による日本軍の働き――第一次世界大戦のさい、地中海に派遣された海軍の第二特務艦隊の目覚ましい活躍など――のお返しでしょうか。とにかく、センピルたちの来日により、海軍は航空関係の訓練・技術において飛躍的に前進したといわれています。

さらに、センピルは最新式のイギリスの航空母艦の計画ももたらし、この事が1922年に竣工した「鳳翔」(ほうしょう)の開発の最終段階に影響を与えたそうです。鳳翔は、設計と開発段階から純粋空母としての運行を目的として建造された艦(正規空母)として、世界で最初に完成しました。つまり、世界最初の純粋な空母は日本で作られたということになります! 

しかしながら、センピルの教えを受けた日本海軍は、20年後のマレー冲海戦(1941年12月)で、イギリスの東洋艦隊に決定的な打撃を与えることになります。この時、イギリスが誇る最新鋭戦艦「レパルス」と「プリンス・オヴ・ウェールズ」の2隻を撃沈しましたが、これは航空機で航行中の戦艦を撃沈した史上初の衝撃的な出来事でした。まさに、歴史というのは皮肉なものですね…。ちなみに、アメリカは、真珠湾での教訓とこの出来事から、「航空主兵」へと転換を図りました。

 

予科練平和記念館と3つの文化

 以上のことも念頭におきつつ、予科練平和記念館の話に移りましょう。

「戦争と文化」というブログですから、まず、記念館と3つの文化(歌・写真・建物)について書いておきましょう。

皆さんもご存じの「若鷲の歌/予科練の歌」(1943年発売)――若い血潮の 予科練の 7つボタンは 桜に錨…――は、古関裕而(註2)が作曲しました。彼は、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」(1948年発表)――雲は湧き 光あふれて 天高く 純白の玉 今日も飛ぶ…――も作曲しています。古関の曲に「気品」や「格式高さ」を感じる人もいるでしょうね。私もそうした1人です。その彼の端正な直筆の楽譜(スコア)の複製も展示されています。ちなみに、「若鷲の歌」の作詞は西条八十(註3)です。「同期の桜」の歌詞も彼の作品です。

 また、館内で見られる素晴らしい写真があります。これは昭和を代表する写真家・土門拳(註4)が泊りこんで、練習生と寝食をともにして撮ったもので、42枚あります。戦後、一連の写真のほとんどは焼却されてしまったそうですが、持ち主の練習生が入院中だったために処分を免れて残ったものだそうです。実は、土門は1941年に>徴兵検査を受けているのですが、「不合格」となっています。この時の経験が練習生の撮影になんらかの関係をもっているかもしれません。残念ながら、著作権の問題があり、彼の写真はここでは紹介できません。ぜひ一度記念館を訪れて自分の目でご覧になってください。

 

121101_1232~01.jpg

 さらに、戦争関係の記念館のイメージとは結びつかないような、建物(乃村工芸社設計)についても述べておきましょう。記念館では、「空」を内側から見せることを大切にしているそうです。館内は非常に明るくなっています。つまり、館内には太陽の光が入ってくるし、館内から空を見ることができるということです。パンフレットには「変わらぬ空の風景から、当時の少年たちの気持ちや現在の平和な世界のことを考えてみて下さい」とあります。また、建物の外観は四角形の壁(亜鉛メッキをほどこした鉄板)とガラスとが組み合わされています。URLには「記念館の外観は幾何学的なシルバーの市松模様ですが、予科練習生たちがあこがれた空を映して刻々と表情をかえていきます」と書かれています。

 

茨城県阿見町の予科練

 茨城県阿見町は、大正時代に「霞ヶ浦海軍航空隊」が置かれていました。1939年(昭和14年)に「飛行予科練習部」(予科練)が、神奈川県の横須賀から移転してきました。それ以来、終戦まで、全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うこととなります。

 この地域にはいくつもの軍事施設があり、1945年6月10日には空襲を受けています。この時の空襲では、練習生も犠牲となりました。当時、看護にあたった方々の証言は生々しいものです。米軍による、爆撃目標の説明や爆撃による戦果などについて説明した秘密文書も公開されています。余談ですが、重要な文書にもかかわらず、前者の日付は原文では「9月6日」(9 September 1945)となっています。「間違いを見つけた!」と思ったら、解説には「誤りか」とあり、「6月9日」と( )で訂正されていました。

 予科練に入る若者の志望動機はさまざまで、資料を見ていると「貧困が志望動機」という練習生もいます。しかし、多くの若者には憧れのようでした。以前のブログ(第6回)で取り上げた坂井三郎(註5)もその1人です(註6)。霞ヶ浦海軍航空隊での「最後のテスト」について、彼はこのように回想しています――「こんどのテストは一大難関だった。このテストに失敗したら、私には二度と飛行機へのチャンスはめぐってこないのである」「こんど落ちれば、また『榛名』〔軍艦の名、彼は榛名の砲手でした〕に帰されるのかと思うと、暗い気持ちになった」。

1936年(昭和11年)、坂井は種々の苦労ならびに試験の末、やっと念願の「霞ヶ浦海軍航空隊」(まだ予科練ではありません)に入隊するときの第一印象を、次のように回想しています。年齢的に受験は最後のチャンスでしたから、喜びもひとしおだったでしょう。

  まず隊門には、『霞ヶ浦海軍航空隊』と黒々と大書された大看板がかかり、そこを入って左にまがると、木造二階建ての庁舎があり、さらにその後ろに、これも白く塗った士官宿舎がある。庁舎の前には広場があり、そこには大きな号令台がデンと据えられている。号令台から見渡すと、広場をはさんで右の方に平屋建ての講堂が立ち並び、左にこれも木造二階建ての兵舎が軒をならべている。

 この短い文章からだけでも、私には、当時の霞ヶ浦海軍航空隊がどれほど若者の憧れの的であったか、坂井がどれほど深い印象をもったかが伝わってくるような気がします。

 

平和記念館内部

 記念館には、予科練の制服である「七つボタン」をモチーフに、7つの空間から構成された展示室があります――入隊・訓練・心情・飛翔・交流・窮迫・特攻の7つです。

 ここでは、2番目の「訓練」について少し述べましょう。この展示室では、予科練での厳しい生活、訓練風景、教育の様子などが紹介されています。土門拳の写真は、さすがに当時の練習生の雰囲気を生きいきと伝えてくれています。

先述のように、予科練には全国から優秀な練習生が集まってきました。阿見町の予科練で教えられる授業内容も垣間見ましたが、「月月火水木金金」といわれるびっしり詰まった授業内容は、実にバラエティに富んでいます。月曜日から土曜日まで、毎日6-7時間の授業があります。「座学」をしている練習生の表情は真剣そのものです。

戦闘機などの搭乗員になるには、特に数学と物理が重視されたようですが、教科書を見ても、私にはその内容は理解できませんでした(苦笑)。また、入隊の試験問題や教科書には難しい漢字が多用されており、読むだけで一苦労です。陸軍では、英語は敵性言語として教えられませんでしたが、海軍では英語も教えられました。

もちろん、体力面でも厳しく鍛え上げられます。体育の時間のビデオでは、全員が「とんぼ返り」をできるのに驚きました。考えてみれば、戦闘機というのは高速で複雑な動きをするのですから、当然のことですね。いずれにせよ、まさに、文武両道の教育が行なわれていました。また、起床から就寝まで、すべてが競争で、遅い者たちには厳しい罰則も待っていたそうです。

将来は戦艦に乗ることが前提なので、睡眠はハンモック(吊床)でとっていました。スペースが狭いからでしょうか、みんな頭と足が隣の練習生と反対になって寝ています。つまり、寝る時は右を見ても左を見ても、同僚の脚があるということです。慣れないうちは、ハンモックから落ちることもあったそうです。かなりの高さがありますから、痛かったでしょうね。

厳しい毎日を生きる10歳代-20歳代始めの若い訓練生たちは、やはり「何もない」日曜日が待ち遠しかったようです。それでも、予科練での生活には「張り」があったでしょう。また、地元の人々は練習生をとても大事にしたそうです。数年間の生活で、練習生はグンと成長して卒業していったに違いありません。

 練習生たちの毎日の生活をみていると、なんだか、自分の生活態度が恥ずかしくなってきました。私は徴兵制には反対ですが、教育的観点から「徴兵を復活せよ!」という老年の論者の主張にも、それなりの妥当性があるかもしれません。

 

特攻

記念館の最後の展示室は「特攻」です。この暗い部屋は多数の小さなライトで照らされていますが、その数の多さは約19000人にのぼる予科練出身の戦死者数を象徴しています。

「神風(しんぷう/かみかぜ)特攻隊」の話など、特攻隊については、皆さんもかなりご存じでしょう。神風特攻隊の隊員は戦闘機を操縦しながら散っていきました。しかし、戦況の悪化にともない、偵察機や練習機など戦闘機以外の飛行機や、万全の状態ではない飛行機も数多く使用されました。

回天内部.JPG
回天内部の模型、平和記念館所蔵
石川明人氏撮影

 しかし、戦闘機の操縦士になることを志願したのに、戦況悪化のために、飛行機以外の乗り物を操縦して特攻作戦を遂行する隊員もいました。船体の直径がわずか1メートルで1500キロの爆薬を弾頭にもつ、1人乗りの特殊潜水艦「回天」(天をめぐらし戦局を逆転させる)や、艇首に爆薬を装備した1人乗りの高速木製モーターボート「震洋」を運転したりして、敵を目がけて突進したわけです。おそらく、彼らは戦闘機/その他の飛行機を操縦できずに残念だったでしょう(それとも、そういう考えが浮かぶ余裕はなかったのでしょうか)。それでも、飛行機と特殊潜水艦や特殊モーターボートは、それなりの速度で動く乗り物です。ある意味で、「飛行機に近い」乗り物といえるかもしれません。

私は、「伏龍(ふくりゅう)」とか「土竜(もぐら)」と呼ばれる特攻戦法には驚きました(註7)。「伏龍」というのは、簡易潜水服を着て機雷を所持し、水中で敵船を待ち受け、敵船がきたならば、棒を使って水中から機雷を船底にあてるという戦法のことです(註8)。成功すれば、自分も死にます。また、命中しなかった場合には、潜水服を脱ぎ、拳銃で敵を撃つように訓練されていたそうです。

「土竜」というのは、海岸線に沿って掘った穴に土竜のように爆薬を抱えて潜み、敵が上陸して戦車などが来たら、爆薬を抱えたまま戦車にぶつかるという戦法です。これらの戦法は、練習生たちの「戦闘機の搭乗員になる」という志とあまりにもかけ離れていたに違いありません。

こうした戦法を実行する前に終戦が訪れたのは、彼らにとって「幸い」といえるでしょう。

 特攻隊員の「心情」(3番目の展示室の名称)は、隊員によって様々でしょう。それでも、私が見た限りでは、遺書に書かれているのはやはり家族(父母、兄弟、姉妹、子ども、祖父母…)のことが多いようです。10歳代-20歳代始めの若い訓練生たちですから、当然のことだと思います。

 また、深入りはできませんが、戦況が悪化してからの特攻隊員が「自分の死をいかに捉えていたのか」という問題――一言でいうと「自分の死の意味付け」をめぐる問題――は複雑に違いありません。これについては、戦艦・大和で沖縄特攻に出撃した、数少ない生還者の一人も、「何のために死ぬのか、死ぬための意味づけが欲しかった」と述べています。こうした問題に、特攻隊員の誰しもが直面したに違いないと思うと、後世に生きる私たちは複雑な気持ちになりますね…。

 

おわりに

 私が予科練平和記念館を訪れた日は、快晴でした。「この空で、坂井三郎たちも技を磨いたのか…」と思いつつ、記念館を後にしました。

 

121102_1111~01.jpg

  特攻で亡くなった19000人にものぼる、知力と体力と精神力が優れた特攻隊員がもしも全員生きていたら、戦後の日本の種々の局面で活躍してくれたに違いありません。『戦争の常識』の著者・鍛冶俊樹氏は「戦後の経済発展に大きく寄与したのは、戦争から還って来た元兵隊達であることはよく知られている」と述べています。軍隊で組織活動を訓練され、ときには機械技術にも精通していた多数の若者が一斉に日本社会に復帰し、最初は国のために捧げた命を、今度は日本の復興のために捧げたということです。

 特攻隊員自身にとってはもちろん、私たち戦後に生きる者にとっても、特攻隊員の死は非常に残念なことです。

 ここ数回は「平和」について書いてきましたが、今回のブログを書きながら、特攻隊員のことにいろいろと思いをはせ、つくづく「平和ほど大切なものはない」ということを改めて認識しました。

 †

 次回からは、クラウゼヴィッツの「旧い戦争」概念に対して、「新しい戦争」概念を呈示した、メアリー・カルドーの『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』を3回にわたって取り上げます。それほど大部の著作ではありませんが、実に内容の濃い著作です。現代の「戦争」について知るには、必読の書ではないでしょうか?

 ブログのアップは毎月1日ですから、次回のアップは3月1日です。

 

 

星川啓慈(比較文化専攻長)

 

 

【謝辞】

執筆を終了した後、事実関係などを確認するため、年が明けて再び記念館を訪れました。そのさい、私のさまざまな質問に丁寧に答えてくださり、回天内部の撮影を許可してくださった、学芸員の渡邉裕美子さんに心から感謝いたします。

 

【註】

(1)戦況の悪化に応じて、選抜試験の内容・条件も変わったことにも注意してください。

(2)古関裕而(こせき ゆうじ)。1909年‐1989年。作曲家。1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選しました。これは日本人として初めての国際的コンクールの入選です。

(3)西條八十(さいじょうやそ。西条と表記されることも)。1892年‐1970年。詩人、作詞家。

(4)土門 拳(どもんけん)。1909年‐1990年。昭和時代に活躍した日本の代表的写真家。種々の活動をしていますが、人物写真や社会的リアリズムに立脚する多くの報道写真も撮っています。

(5)坂井三郎(さかい さぶろう)。1916年‐2000年。1937年3月、霞ヶ浦航空隊に入隊、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。終戦までに大小多数の撃墜スコアを残す、日本のエース・パイロットとして知られています。海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』(英訳はSamurai)は世界的ベストセラーとなりました。

(6)坂井の『大空のサムライ』を読むと、志望動機はなかなか複雑ですが、このようにいえるでしょう。

(7)その他、桜花、蛟竜、神竜等の特攻隊は、すべて予科練を中心に編成されていたそうです。

(8)意外なことでしたが、伏龍隊の隊員には、日本統治下の台湾で予科練習生に選ばれて来日、終戦を土浦海軍航空隊で迎えた台湾の人もいます。

 

【参考文献】

(1)「予科練に志願した昭和の少年たち」予科練平和記念館配布資料。

(2)記念館内にある、写真・実物・ビデオ・模型などの諸資料(館員の話も含む)。

(3)坂井三郎『大空のサムライ――かえらざる零戦隊』光人社、1994年。

(4)鍛冶俊樹『戦争の常識』文春新書、2009年。

(5)戸部良一ほか5名『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』中公文庫、2012年。

(6)「巨大戦艦・大和」NHK、2012年12月8日、放送。

(7)ウィキペディア「大日本帝国海軍航空隊」「海軍飛行予科練習生」「鳳翔」など、関係諸項目。

GO TOP