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比較文化専攻

戦争と文化(15)――「新しい戦争」とは何か?: M・カルドーの『新戦争論』から(2)

はじめに

 今日は入学式ですね。

 大正大学の比較文化専攻またそれ以外の専攻に進学された皆さん、おめでとうございます。ぜひとも、修士課程/博士課程で充実した研究生活を送ってください。研究というのは、人によって(学部学生からノーベル賞受賞者まで)レベルの差はあれども、「楽しい」というのが共通項です。もちろん、苦しいこともあるでしょうが、研究は本質的に楽しいものです。

 前回から引き続いて、今回もカルドーの『新戦争論』を取り上げます。

彼女はクラウゼヴィッツ以来の「戦争」概念を「旧い」としましたが、それでは「新しい戦争」とは何なのでしょうか? 彼女がこの著作で展開する議論の中心をなすのは、1980年代から1990年代にかけて、とりわけアフリカや東欧などで拡大した新しいタイプの組織的暴力です(第3章で展開されるボスナ=ヘルツェゴビナの情勢分析は詳細です)。これはグロ-バル化時代の1つの側面ですが、このタイプの暴力を彼女は「新しい戦争」と表現しています。

カルドーは座学に終始する戦争論を展開しているのではありません。世界中を動き回りながら、実践的な活動を行なっています。「訳者あとがき」によれば、「コソヴォに関する独立国際委員会」のメンバーとなり、1993年3月に敢行された対ユーゴスラヴィア空爆前後のコソヴォにおける人権蹂躙と人権回復に向けた活動に積極的に関与し、「市民勢力の拠点」作りに身を投じてきた実践家だそうです。それは、この著作で彼女が強調する「市民性」(civility)にも反映されています。

 

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 残念ながら、私には「新しい戦争」は複雑すぎて実態把握ができません――もっとも、近代以降の戦争のほとんどは、種々の要素が混じり合っていて複雑ですが。当時のコソヴォの報道でも、何がどうなっているのかよく把握できませんでした。今回はいつも以上に、カルドーのいうことの要約に終始せざるをえませんが、クラウゼヴィッツのいう「戦争」とは異質な「新しい戦争」が起こっていることだけは、そして、それがいかなるものであるかは、お伝えできると思います。

 

「新しい戦争」とは何か

「新しい戦争」では、戦争(一般に国家間または組織的政治集団間の政治的動機により行使される暴力)、組織的犯罪(私的に組織された集団による、私的な目的、通常は金銭的利益を目的として行使される暴力)、そして大規模な人権侵害(国家や政治的に組織された集団が個人に対して行使する暴力)の間の区別が不明確化するという側面があります。それでも、カルドーが「戦争」という言葉を使うのは、上の「戦争」の説明にあるように、「この新しいタイプの暴力の政治的性質を強調するため」です。

このことは、「新しい戦争」を長期的に解決する手段として、「コスモポリタン的アプローチ」(第7章参照)という一種の政治的手法を考えていることにも反映されているといえるでしょう。

「新しい戦争」は多くの文献では、国内紛争/内戦/低強度紛争などと表現されています。たしかにこれらの大部分は局地的ですが、同時に、国境を越えた多数の繋がりを持つため、「国内と国外、侵略(外国からの攻撃)と抑圧(国内からの攻撃)、またはローカルとグローバルの区別をすることが難しい」と指摘されています。本書の副題は「グローバル時代の組織的暴力」ですが、カルドーは「新しい戦争はグローバリゼーションという過程において理解されるべきである」と主張します。「グローバリゼーション」という概念は学者の間で定義が異なっています。カルドーのいうグローバリゼーションは「政治・経済・軍事・文化の地球的規模での相互連繋の強化」を意味します。そして、この相互連繋強化の過程は「統合と分化、均質化と多様化、グローバリゼーションと地域化が同時に起こる」という矛盾をはらんだ過程です。

 

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グローバリゼーションを研究する多くの人々の関心は、主として「世界的な相互連繋が領域的主権の将来、つまり近代国家の将来に対してどのような意味を持つか」という点にあります。しかしながら、カルドーが指摘するところでは、「新しい戦争」は「国家の自律性が侵食される」という脈絡、そして極端なケースでは「国家が解体してしまうという」脈絡の中で発生しているのです。別の視点からいえば、従来の組織的暴力は、国家なり集団なりの「正統性」に基づいて独占されてきましたが、こうした「暴力の独占がグローバリゼーションの結果、侵食されてきている」という脈絡において、「新しい戦争」は起こってきているのです。

 

組織的暴力の独占の侵食

組織的暴力の独占の侵食は、カルドーの分析に従えば、上下2つの方向から侵食されています。

上からの侵食は、2つの世界大戦から始まり、冷戦期の東西のブロック・システム、その後の多国間の軍部同士の国境を越えた繋がりなどによって起こってきました。もはや、国家が単独で他の国家に対して武力を行使する能力は、弱まりました。彼女によれば、これは「部分的には、軍事技術の破壊力の増大や、特に軍事分野における国家の相互連繋の拡大という現実的な理由」によります。

他方で、組織的暴力の独占は「暴力の私有化の拡大」によって下からも侵食されてきています。前回、「対外的には戦争能力が増大し、国内的には治安が向上する」という逆説的プロセスに触れました。「新しい戦争」には、これとまったく反対のプロセスを辿っているという面があります。すなわち、「犯罪、汚職、非効率の蔓延や経済の衰退により国家の歳入が減少し、組織犯罪の増加や準軍事集団の出現の結果として暴力がますます〈私用化〉され、国家の政治的正統性が失われつつあるような中で発生している」のです。

以上の「上下2つの方向から、組織的暴力の独占が侵食されている」という視点から、アフリカや東欧などで起きた/起きていることを見直してみれば、カルドーがいうことがよく理解できるでしょう。

 

「新しい戦争」と「アイデンティティ・ポリティクス」

カルドーは「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉を使用します。これは「民族、氏族、宗教や言語であれ、ある特定のアイデンティティに基づく権力の追究」を意味します。そして、「新しい戦争」の目標は、この「アイデンティティ・ポリティクス」に関わるのです。

従来、イデオロギー的亀裂(共産主義 vs. 民主主義など)や地域的亀裂(ドイツ地域 vs. フランス地域など)がありました。しかしながら、カルドーの指摘では、こうした亀裂が「包容的、普遍主義的、あるいは多文化的な価値観に基づく〈コスモポリタニズム〉と、自集団中心主義的なアイデンティティに基づく政治との間で顕著になりつつある政治的亀裂に、ますます取って代わられようとしている」のです。つまり、イデオロギー的対立/地域的対立よりも、排他的思考とコスモポリタン的思考との対立のほうがクローズアップされてきている、ということです。もちろん、彼女自身はコスモポリタニズムの立場にたって、議論を展開しています。

 

「新しい戦争」の目的

「新しい戦争」という概念は非常に複雑で種々の面をもっています。そのうちの1つとして、「戦争行為の様式の変化」「戦う方法の変化」があげられます。それは「ゲリラ戦」と深い関係にあります。ゲリラ戦にもいろいろとありますが、一般に従来のゲリラ戦では、領土は住民の政治的なコントロールによって獲得され、交戦はできるかぎり回避されました。カルドーは「毛沢東やチェ・ゲバラらは、ゲリラ戦が人々の〈感情と理性〉を掴むことを目的とした」といいます。これに対して、「新しい戦争は、社会を不安定化させることを目的とした対ゲリラ戦の技術を借用しており、それは〈恐怖と憎悪〉を生み出すことを目的としている」と論じています。もちろん、「新しい戦争」でも、交戦の回避や住民の政治的コントロールによって領域を支配するという側面はあります。しかし、彼女によれば、それは「恐怖と憎悪」を生み出すことが多いのです。

 

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 さらに、カルドーは以下のように続けます。

 「新しい戦争」の目的は、異なるアイデンティティの人々や、異なる意見をもつ人々を排除することにより住民をコントロールすることなのである。したがって、これらの戦争の戦略的目標は、大量虐殺や強制移住、様々な政治的、心理的、経済的な嫌がらせのテクニックを用いた住民の追放にある。これが、すべての「新しい戦争」において難民や国内避難民が劇的に増大する一方、暴力行為の多くが市民に対して向けられる理由である。

20世紀の初頭における軍人と市民の犠牲者の比率は、8対1だったそうです。しかし、1990年代の戦争では、この比率はなんと、1対8に逆転しているそうです。非戦闘員への暴虐行為、包囲攻撃、歴史的建造物の破壊といった行動は、伝統的な戦争ルールによって禁止され、20世紀の初頭までに戦争法によって成文化されました。しかし、「今やそれが新しい戦争の戦術を構成する基礎的な要素となっている」のです。

 

「新しい戦争」の担い手と経済

「旧い戦争」では、通常の部隊は垂直的/階層的に組織されていました――軍隊の細かなかつ秩序だった縦の人間関係を想起してください。しかし、「新しい戦争」では、準軍事組織、地方の軍事指導者、犯罪組織、警察部隊、傭兵集団、正規軍、正規軍から離脱した部隊など、種々の集団が戦闘を行ないます。これらの集団は分権化されているので、相互に対立することもありますが、反対に、陣営が異なる場合でさえも協調することがあります。敵/味方の区別が単純ではないのです。

また、「新しい戦争」の経済も「分権的」です。その戦争への参加者の参加率は低く、失業率は高く、その経済は外部資源に多くを依存しています。「新しい戦争」では、世界的規模の競争、物理的な破壊、通常貿易の中断などの理由から、税収と国内の生産が劇的に減少します。こうした状況において、戦闘集団は、略奪や闇市場、外部からの支援によって資金を調達します。その外部からの支援には、国外難民からの送金、人道援助への課税、周辺諸国からの支援、武器・麻薬・石油・ダイヤモンドなどの高価な物品の不法取引など、さまざまな形態が含まれます。

さらに、これらすべての資金源を維持するためには暴力を継続することが不可欠となります。それゆえ、カルドーがいうように、「戦争の論理が経済の機能の中に組み込まれてしまう」のです。こうした戦争経済やそれに近いものは、彼女によれば、バルカン半島、コーカサス地方、中央アジア、アフリカの角、中央アフリカや西アフリカのような地域でみられるということです。

 

排他主義とコスモポリタニズム

カルドーによれば、多くの場合、最初に攻撃の標的とされるのは「戦闘当事者たちとは異なる政治を支持し、包括的な社会関係や公共道徳を維持しようとする人々〔コスモポリタン的立場にある人々〕」です。そうすると、一見「新しい戦争」は、異なる言語・宗教・部族集団間の戦争のように見えますが、その実は「自集団中心的なアイデンティティ・ポィティクスを標榜している集団間が協力し合って、市民性や多文化主義といった諸価値を抑圧している戦争である」ともいえます。言いかえれば、それは「排他主義とコスモポィリタニズムの間の戦争」として理解できるのです。

 

コソボ01.jpgカルドーは「アイデンティティ・ポィティクスの枠組みの中では、長期的に問題解決を可能とする施策を見つけることはできない」といいます。では、どのようにすればよいのでしょうか? 彼女は「問題を長期的に解決する上で鍵になるのは、公的権威による組織的暴力のコントロールを、それがグローバルであろうと国家や地域のレベルであろうと、再構築すること、つまり正統性の回復にある」といいます。「包括的で民主的な価値観を中心に正統性を再建する、前向きでコスモポリタンな政治的取り組みがうちたてられなければならない」というわけです。

 

おわりに

今回のブログは、カルドーの見解の紹介に終始しました。問題は、われわれ1人ひとりが、彼女のいう「コスモポリタン」の立場に立ちうるか否かということです。私がもしもコソヴォで、この立場を表明して、銃を向けられたら…ということを考えると、正直なところ、心許ないですね。

しかし、実際にそうした人々は存在するのです。カルドーは、①自らをフチ族〔フツ族でもツチ族でもない中立的「フチ族」〕と呼び、自分たちの地域〔ルワンダ〕を大量虐殺から守ろうとしたフツ族やフチ族の人々、②サラエヴォやトゥヅラといったボスニアの諸都市において、市民的・多文化主義的な価値を守り通し、特定の民族集団に所属しようとしなかった人々、③和平交渉に取り組んだ北西ソマリランドの長老たちを、あげています。

さて、次回は、「コスモポリタン・アプローチ」をめぐるカルドーの議論に目を転じて、彼女が提案する「新しい戦争」の長期的解決方法をさらに追及してみましょう。

アップは毎月1日ですから、次回は5月1日です。

 

 

星川啓慈(比較文化専攻長)

 

 

【参考文献】

(1)M・カルドー(山本武彦・渡部正樹訳)『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』第1章・序論、岩波書店、2003年。

(2)「訳者あとがき」同書、所収。

(3)D・グロスマン(安原和見訳)『「戦争」の心理学――人間における戦闘のメカニズム』二見書房、2008年、第3部「戦闘の叫び声――こんな男たちがどこから生まれてくるのか」。とりわけ、第10章から第14章。