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比較文化専攻

戦争と文化(16)――「コスモポリタン法」の執行へ!: M・カルドーの『新戦争論』から(3)

はじめに

 前回から引き続いて、カルドーの『新戦争論』を取り上げます。今回は、「新しい戦争」にいかに対処すればいいのか、を考えます。「コスモポリタン・アプローチ」がその鍵となります。カルドーについては、今回が最後となります。

 

カルドーの国連の平和維持活動批判

国連の「平和維持活動」の回数は、1990年代に入って急増しました。それに伴い、要求される活動内容も多様化していきました。しかしながら、「人道的介入」という言葉で知られるようになった経験から得られるものは、「今日までのところ、控え目にいってもイライラするようなものでしかなかった」というのが、カルドーの評価です。

驚きですね。彼女の国連の平和維持活動に対する評価は、次のとおりです。

 せいぜいのところ、人々が食料を手にしたり、脆弱で壊れやすい停戦が合意された程度に過ぎず、それさえも国連平和維持部隊の存在に帰することができるかどうかは明確ではない。他方、たとえばルワンダで虐殺を止めることができず〔80万人ともいわれる人々が殺された〕、またいわゆる安全地帯と呼ばれてきたボスニアのスレブレニッツァがセルビア人勢力によって攻撃され、あるいはソマリアで軍司令官のアイディード将軍を捕まえようとしたものの茶番と悲劇の混ざり合った結果に終わってしまったことなどは、まさに最悪の事態といえよう。こうした結果、国連はその面目を失い、辱めを受けてしまったのである。

どうしてこれらが失敗したかについては、多くの説明がなされているようですが、カルドーは、最も重要な説明として、「認識の誤り、即ち組織的暴力についての従来の〔クラウゼヴィッツ的な〕考え方に固執したこと、そして「新しい戦争」の性格と論理を理解できなかったこと」をあげています。また、「紛争」が国家間のものであったか内戦であったかという議論をする限り、紛争は、戦闘当事者の間で行なわれる「旧い戦争」としてしか捉えられていない、ということになります。つまり、そうした問題の立て方自体が、「旧い」枠組みの中から生まれる発想なのです。こうした旧い思考の枠組みを脱ぎ捨てて、新たな視点から戦争/紛争を見直さないと、適切な対処方法はもたらされません。

 

コスモポリタン・アプローチ

そこで、カルドーは「必要とされているのは、〈新しい戦争〉に対するより政治的な対応」であるといいます。「恐怖と憎悪を蔓延させる戦力に対抗して、人々の〈感情と理性〉を育むという戦略」が取られなければならない、というのです。排除の政治に対して包容の政治が、軍閥による犯罪に対して国際的な原則や法的規範遵守がとって代わらなければならないのです。すなわち、「いわゆる国際社会と地域の人々の双方を包み込み、そして様々な形態の自集団中心主義に屈することなく対抗できるような、新しいかたちのコスモポリタン的な政治に向けた人々の動員」が必要なのです。

「コスモポリタニズム」という言葉はギリシアでも使用され、カントも『永遠平和のために』の中でこの概念について述べています。しかしながら、カルドーはカントの場合よりも広い意味で、「寛容性や多文化主義、市民性と民主主義といったものを含む積極的な政治ヴィジョンと、グローバルなレベルを含むさまざまなレベルにおいて、政治共同体を導く普遍的原理を他に優先して法律面で遵守することを指すもの」として、用いています。

カルドーは、暴力をコントロールする際に鍵となる点は「正統性の再構築」であると主張します。前回のブログで見たように、「新しい戦争」においては、「正統的な暴力の独占が崩壊」してしまっています。カルドーのいう「コスモポリタン・アプローチ」は、紛争当事者の政治目標を受け容れてしまってはどのような解決策も機能しないことから、「コスモポリタンな原則に沿って機能するような代替的な政治に基づいてのみ、正統性の回復が可能になる」という前提に立っています。私には、これはかなり楽観的に過ぎるように感じられますが、彼女は「このアプローチを採れば、包容・寛容・相互尊重といった価値観がひとたび確立されれば、領域面での解決は比較的容易に後からついてくるであろう」と推測しています。

では、こうした「コスモポリタン・アプローチ」は具体的には何を意味するのでしょうか? それは、「トップ・ダウン型の外交からコスモポリタン・ポリティクスへ」「平和維持・平和執行からコスモポリタン法の執行へ」「同意」「公平性」「武力の行使」「人道的支援から復興へ」という項目のもとで論じられています。

以下では、コスモポリタン・ポリティクス、コスモポリタン法の執行、武力の行使の3つについて、見てみたいと思います。

 

コスモポリタン・ポリティクスとコスモポリタン法の執行

近年の戦争において、国際社会が用いてきた支配的なアプローチは、カルドーによれば「戦闘当事者間の交渉により解決を目指すこと」でした。しかしながら、これにはいくつかの欠点があります。

①そうした交渉は、戦闘当事者が表舞台にでる機会を増やし、犯罪者であるかもしれない人々にすら、一種の公的正統性を 与えることになる。②戦闘当事者が自集団中心的な政治目標を掲げるため、実際に有効な解決策を見つけることは非常に難しい。③戦闘当事者が合意を実行する能力についての過大評価された結果に基づいて合意が結ばれる傾向があるが、彼らが政治 的・経済的に地位を維持するには、安全ではない環境が必要である〔これでは解決にならない〕。

こうした欠点があるにもかかわらず、「戦闘当事者こそが暴力を止めることのできる唯一の人々であり、他に代案などない」と論じられることがあります。しかしながら、カルドーもいうように、「だからといって、戦闘当事者に平和を創ることができる」とは限りません。彼女はそうした主張に反対しています。

コスモポリタン・ポリティクスの重要性を説くカルドーの主張によれば、「〔戦争/紛争の〕調停者が国際的な規範や基準を明確にし、それらを侵害してしまうような妥協は一切拒絶し」なければなりません。さもなければ、あらゆる制度の信頼性は損なわれ、どのような目的の遂行も非常に困難となってしまうからです。軍閥指導者との協議において重要なことは、「市民社会の出現または再出現が可能となるような空間を形成できるように、暴力をコントロールすること」です。

カルドーは次のように推測しています――①状況が「正常」であればあるほど、排他主義に代わる政治勢力が拡大する可能性は高くなる。そうなれば、②「戦闘当事者とは別の、権力の源泉となる可能性を秘めた存在」が交渉の舞台に登場し、そのコスモポリタン的な「新しい権力の源泉」が一般的により目に見えてくる。必要なのは「平和維持」ではなく、「コスモポリタン法」の執行です。すなわち、「国際人権法と国際人道法」の執行です。

 

武力の行使

「平和維持活動」というと、一般的には、「武力の不行使」がイメージされるかもしれません。しかし、コスモポリタン法の執行に際しては、「武力を行使すること」が必要です。すなわち、「被害者の命を救うために、時には平和維持隊員の命を危険にさらす覚悟をしなければならない」のです。このあたりは、脈絡は異なるとしても、キーガンの論調(第10回のブログ参照)と軌を一にするところもありますね。また、コスモポリタン法の執行の提案は、「戦術、装備、そして何よりも指揮と訓練に関して相当の再考を要する、新種の兵士兼警察を育成するという野心的な提案」でもあります。

これまでの「人道的介入」に関連して、「空爆」という手段が取られましたが、カルドーはこれに対してはかなり批判的です。なぜならば、「国民的/国家主義的考え方」から抜け出せていないからです。つまり、「いまだに人々は共通の人類社会という概念にたどり着いているとはいえない」のです。たとえば、アメリカは高性能の種々の武器を所有していますが、「空爆」を好みます。カルドーの批判によれば、これは「自国民である、あるいは西洋人であるという一種の特権意識から生まれている」というのです。

これは、あまりにも理想主義的に過ぎる主張だといえるかもしれません。もしも私が普通のアメリカ人なら、自国の兵士が戦闘で死ぬことを考えると、アメリカの兵士の被害がより少ない空爆を支持するかもしれません。皆さんの中にもそういう人が多いでしょう。しかし、コスモポリタン法の執行に際しては、国民的/国家主義的な思考の枠組みの中で物事を考えてはならいのです。カルドーの主張するコスモポリタン法の執行は、そこまでの覚悟を必要とするのです。

 

新しいコスモポリタン的思考と従来の国家主義的思考との間で

「新しいコスモポリタン部隊」には、実に多くの事柄が要求されます。

①多国籍の軍隊となる可能性が高いため、統合された指揮系統や合同演習、共通の賃金や労働条件などが導入されなければならない。②正統に武器を携帯しなければならない。③戦争法を知ると同時に遵守し、厳格な行動規範を守る必要がある。④汚職や人権の侵害に関する報告は敵性に調査されなければならない。

しかし、さまざまな問題もあるのではないでしょうか?

①については、多国籍の人々からなる集団ならば、言葉・宗教・文化などの面での相違もあるでしょう。また、豊かな国出身の兵士と貧困な国出身の兵士の賃金(共通の賃金)の算出もけっこう面倒でしょう。それとも一律なのでしょうか? また、②については、状況に応じて規定するわけですが、これはかなり難しいでしょうね。なせなら、予期しないケース等が出てくると予想されるからです。それとも、大枠だけしか決めないのでしょうか? ③については、戦争法を無視する戦闘集団と遭遇した場合、対応に困るという状況がでてくるかもしれません。④については、労力や時間がかかるでしょうね。さらに、人員や費用についても、各国の負担の問題が出てくるでしょう…。

一言でいうと、「コスモポリタン法の執行には、種々の面で莫大なコストがかかる」ということになります。もちろん、カルドーはこうした事柄については充分に認識したうえ発言しているはずです。第6章「コスモポリタン・アプローチへ向けて」の締めの言葉は次のようなものです。

 そしてなにより、これら新しい軍隊が行動する動機については、より広範なコスモポリタン的権利の概念に組み込まれたものでなければならない。正統な武器の携帯者としての兵士が自国のために死ぬ用意が出来ていなければならなかったのと同様に、国際部隊の兵士・警察官は〔国際的〕人道のために自分の命を危険にさらさなければならないことになるのである。

カルドーの「新しい戦争」をめぐる議論は非常に優れたものだと思います。だからこそ、3回にわたって取り上げたわけです。

しかしながら、アフガニスタンに派遣されたアメリカの兵士は、テレビで次のように述べていました――「自分は祖国アメリカのために死ぬのなら命を惜しまない。しかし、正直なことをいうと、他の国の人のために死ぬのは気乗りがしない」。

『永遠平和のために』を書いたカントの場合もそうですが、カルドーのコスモポリタン的な世界の実現に賛同する人々は、自分の問題として、そこに到達する道のりを考えてみることが必要だと思います。私としては、恥ずかしながら、数年前から平和に尽力している2つの国際団体にささやかな寄付をしていることと、こうしたブログを書きながら思いをめぐらすことくらいしかできません。

 

おわりに

3回にわたって、カルドーを取り上げました。『新戦争論』の一部しか紹介できませんでしたが、クラウゼヴィッツの『戦争論』と対比するとき、「戦争」がいかに変わってきているかが、よくわかります。

次回は、「聖書には〈汝、殺すなかれ〉とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?」について考えます。これは、カルドーの言葉――「正統な武器の携帯者としての兵士が自国のために死ぬ用意が出来ていなければならなかったのと同様に、国際部隊の兵士・警察官は〔国際的〕人道のために自分の命を危険にさらさなければならないことになるのである」――と深い関係にあります。

ユダヤ=キリスト教諸国の兵士たちは、この聖書の教えと自分たちがおこなう殺人行為の間で「折り合い」をつけねばなりません。そのことについて、考えてみたいと思うのです。

アップは毎月1日ですから、次回は6月1日です。

この3回は「特に難しい」という声も聞きましたので、分かりやすさに努めます(笑)。

 

星川啓慈(比較文化専攻長)

 

 

【参考文献】

(1)M・カルドー(山本武彦・渡部正樹訳)『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』岩波書店、2003年、第6章。