学部・大学院

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比較文化専攻

平成25年度提出の「修士論文」の紹介!

はじめに

 

今年度、大学院比較文化専攻に提出された修士論文の概要を紹介します。

青木さんと佐々木さんは、指導教授の伊藤淑子先生と綿密な相談を重ね、全教員がコメントする厳しいゼミでの発表を何度も経験しながら、修士論文を完成しました。

 青木さんは、誰でも小さいころに読んだことのあるサン=テグジュペリの『星の王子さま』を、佐々木さんは新しいジャンルである「ボーイズラブ」を題材に、修士論文を完成させました。

 比較文化専攻の修士論文にふさわしく、青木さんの論文は、ヘビという表象に注目して緻密な物語分析を行うとともに、著作権の失効後に出現した数多くの日本語翻訳を比較することによって、サン=テグジュペリのフランス語の原典がいかに両義的な解釈を生み出すように巧みに仕組まれているかということを、丁寧に論じています。日本で、日本語を研究ツールとして欧米の文化を分析する利点をおおいに活かした比較研究であるといえます。

佐々木さんの論文は、「少女漫画」の技法と「ボーイズラブ」の表現方法の比較、少女漫画雑誌に掲載された『絶愛』とボーイズラブ専門誌に掲載された作品との比較、また『絶愛』を二次創作とした場合の元になる作品との比較といったように、比較研究の手法を活用しています。フーコーやバタイユ、ギデンズ、上野千鶴子といったカルチュラル・スタディーズや社会学の理論を応用し、学際的な研究をめざしました。

 

          (比較文化専攻長・星川啓慈)

 

 『星の王子さま』の円環を描くヘビ

青木三千代

 

本研究は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』をヘビという表象をめぐって新しく読み解こうとするものである。ヘビ(serpent)が登場する1章、17章、26章の3つの場面を、作品全体の出来事の時系列と配置に関連させて分析し、『星の王子さま』に構造的に組み込まれている物語の意味を解き明かすことが本研究の目的である。

『星の王子さま』は児童文学のように装いながら、簡単に読解することを拒否する。それは物語が時系列にそって述べられないということに起因する。ジグゾーパズルのように分断された時間の流れを再構築しながら読むことを要求するのが『星の王子さま』である。

ところがヘビは物事の始点と終点に配置され、ヘビが登場する3つの章に時間の乱れはない。王子とヘビが出会う17章では、王子はまだ見た目で判断をする状態にある。王子が「ああ!もうわかったから!」と発言したことは重要で、死と再生を司る存在のヘビに出会った時点では、まだ王子は母星B612に帰ることはできない。この章の直前に、王子が星を離れたことを後悔している描写があり、ヘビとの出会いの場面でも王子が「星に帰りたい」と願望していることは明白である。しかし、深い考察に王子の精神状態が達していないことが王子の帰還を阻止する。

王子と語り手の別れが描かれる26章では、ヘビは砂の中へ潜る。その様子が水に潜るように例えられている点に注目しなければならない。『星の王子さま』は表表紙も裏表紙も「B612に立つ王子」の絵が使われるが、それがヘビの潜水とつながり、死と再生を意味することになる。肉体の死は精神の再生となり、それは物語の循環する生命となる。本の表にも裏にも母星B612に立つ王子の絵が示されることによって、王子の精神的な再生が視覚化され、それを本の内部で支えるのが、砂に潜るヘビであり、砂は命を育む水となる。

物語の語りが始まる1章では、本文の前に掲げられた「獣を呑み込もうとするボア」の挿絵と、ボアの原語表記に注目する。ボアの挿絵は、物語を全て読み終えた後、再読する際に、いったん生まれた物語の解釈を呑み込む機能を果たしている。ボアの挿絵が冒頭に置かれることによって、2度目以降に読み返される1章が物語の始まりの章ではなく、通過点となる。ボアの原語での表記については、1章のみ「serpent boa」と表記される。既成の解釈をボアは呑み込み、ただのヘビにもどって王子と出会う。王子はものごとの表層ではなく存在と生命の深淵を見る慧眼へと導かれる。そして王子が肉体を捨てて精神の再生を果たし、帰還を叶えるとき、ヘビは砂のなかに、比喩的に潜水し、ふたたびボア蛇となる。『星の王子さま』はヘビが登場する章を要に、円環を描き、物語のなかに読者を閉じ込める構造を持つ。ヘビの円環に含まれないエピローグで、読み返しへの誘いが明確に示されている。もう一度読め、と読者にささやきかけるのが『星の王子さま』であり、たとえ本を閉じて置いたとしても、表にも裏にも王子が描かれた表紙が、この物語に終わりも始まりもないことを可視化する。

『星の王子さま』は文字を読んでも、絵を解釈しても、その意味を把握したことにはならない作品である。サン=テグジュペリは時系列を分解し、ヘビを死と再生の使者とし、王子に慧眼を授け、物語に止まることのない円環構造を与え、愛を謳う。王子と飛行士をサン=テグジュペリ自身のペルソナとし、かたちのない精神の崇高を、本という物質的な「もの」で表現することが、母国フランスを離れ、アメリカで執筆された『星の王子さま』に仕組まれた意味であるといえる。

 

 

一般誌に掲載された『絶愛-1989-』から見る

ボーイズラブの関係性の変遷

佐々木阿純

 

少女漫画雑誌『マーガレット』(集英社)が1989年から1991年まで尾崎南の『絶愛-1989-』と続編である『BRONZE zetsuai since 1989』を1991年から2006年まで連載をしたことは、画期的な文化現象であったといえる。男性同士の恋愛や過激な性表現を含む『絶愛-1989-』は連載中止になるどころか、人気を博す。男性同性愛者の性愛を描く作品が、小学生から中高生の女子を読者対象とし、一般にも広く認知される少女漫画雑誌である『マーガレット』に掲載されることが可能であったのはなぜか。

 『絶愛-1989-』と一般に流通する『マーガレット』がもたらす違和感は、次の2点による。第一に、読者の年齢である。女性読者を対象に男性同士の性愛を描くジャンルとして成立したボーイズラブ(以下BL)は、女性をセクシュアリティの消費者として位置づけた点において新しい表現媒体であるが、1978年の『COMIC JUN』(後に『JUNE』と改名)の創刊に始まり、さまざまな展開をみせるBL専門誌の購買層はあくまで成人女性であった。第二に、ジェンダー規範の問題である。少女漫画が描き続けたラブストーリーは、伝統的な異性愛であり、少女漫画がギデンズのいう文化の教師の役割を果たしてきたことはまちがいない。もはや現代の少女はセンチメンタルな小説ではなく、少女漫画を通して恋愛の作法を学び、人間関係とコミュニケーションを習得する。『絶愛-1989-』はこの二つの前提を破るものであった。

本研究では、フーコーの「関係」や上野千鶴子の「対幻想」という理論を用い、『絶愛-1989-』を分析する。少女漫画雑誌に掲載されるBLは、少女漫画のコンベンション(慣習)をどのように踏襲し、どのようにヘテロな恋愛の描写を超克することができたのか、あるいはできなかったのか、登場人物の関係性の変遷に注目して検証する。BLが少女漫画雑誌に掲載されることが可能であったのは、従来の少女漫画の異性愛の枠組みに取り込まれているからこそであるのか、それとも、BLという表現方法によって、少女漫画の範疇におさまらない新しいセクシュアリティの可能性が示されているのか。

着目するのは『絶愛-1989-』が描くアイデンティティあるいは自我の相互作用である。フーコーの「関係」は、アイデンティティの形成を問題とする。フーコーは戦場で同性愛がどのように発生するかを問う。むろん兵士たちの全てが同性愛者となるわけではないが、「生と死の狭間」にある空間に「強制的に」置かれたときに起こる現象としてフーコーが男性同性愛をとらえていることは興味深い。上野千鶴子は、吉本隆明の『共同幻想論』の中から「対幻想」に注目し、相補関係にある男女には「自我の譲渡」が起こると述べる。

『絶愛-1989-』の物語構成を分析すると、強制装置としての空間の共有と自我の駆け引きを用いて、少女漫画の構えとBLの成り立ちを接合していることがわかる。登場人物たちの物語への参入と出会いまでは少女漫画のパターンを踏襲する。少女漫画のラブストーリーであれば、男女が出会い、すれちがい、障害を乗り越えて相思相愛を確認し、結ばれて終わる。ところがBLとしての展開はここからが本舞台である。登場人物たちは、性愛の快楽を求めつづける。

結ばれるまでを描く少女漫画と結ばれた後を描くBLとの違いには、関係性の有無がある。少女漫画が関係性のないところで出会った男女(少年少女)を精神的な関係性の成立へと導き、関係性の持続性が示唆されるまでの過程を描くのに対し、本来のBLは精神的な関係性の成立よりも身体的な関わりである性行為を優先する。

この両者を結ぶのが少女漫画誌に掲載されたBL作品である『絶愛-1989-』であるといえる。戦場のような危機的状況(貧困である場合もあれば、孤独であることもある)にヒロインをおき、恋愛の成就を通して自我を確立されるヒロインを描く少女漫画の技法と、自我の放棄と略奪にも等しいセクシュアリティのせめぎあいを見せ場とするBLの表現方法が、『絶愛-1989-』において融合する。戦場ほど過酷な強制装置は働かないが、登場人物たちが空間の共有を余儀なくされるのは、『絶愛-1989-』も同様である。少女漫画の条件を満たしつつ、その恋愛関係を拡大したのが『絶愛-1989-』である。と同時に、少女漫画が関係性の成立で幕を閉じることによって男女の相補性をあえて描かないことが多いのに対し、同性のセクシュアリティの相補性を『絶愛-1989-』が少女漫画にもたらしたことも看過できない。少女漫画もまた、ロマンチックなだけの恋愛の物語に満たされた聖域ではなくなったのだといえよう。