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比較文化専攻

大正大学大学院比較文化専攻の修士論文のご紹介

今回は、平成30年度に大学院比較文化専攻を卒業した緒方誠さんの修士論文(平成30年度提出)をご紹介します。

比較文化専攻では、毎年さまざまなテーマで修士論文が書かれています。
緒方さんは「人間とロボットの関係―『エクス・マキナ』を中心に―」という論文を完成させました。


写真は緒方さんの修了式の様子です。
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人間とロボットの関係―『エクス・マキナ』を中心に―
緒方誠


 本論は、小説や映画がロボットと人間の関係をどのように描いてきたかを問い、その議論の中で、新たな作品として『エクス・マキナ』(2015)におけるロボットの位置づけと意味を考察する。本論文が考察の対象にするのは、小説やSF映画であり、現実におけるロボットの発展やその普及をめぐる問題ではないが、創作的な想像力において、フィクションとして制作されるものと現実の状況は密接に関連するという前提に立ち、人びとがロボットに対して抱く期待や不安が、小説や映画などのフィクションにどのように投影されているか、ロボットと人間の関係を描く作品に通底するものは何であるかを論じている。AI(人工知能)によって多くの労働者が仕事を失うということが現実味を帯びて議論される現代において、本論文の問題意識は、作品分析を超えて、社会的な意義をもつものであるともいえる。

 本論文が問題にするのは、人間の形状をし、プログラムに基づいて自動的に動く機械としてのロボットであるが、第1章では、ロボットということばの起源となった1920年のチャペックの『ロボット(R. U. R.)』にさかのぼり、ロボットは人間の技術の産物でありながら、人間を超越する能力と腕力をもち、人間に反逆する危険性をその起源から有していたことを論じている。だからこそ、SF作家アシモフはロボットが人間の利益のために働くものであるために「ロボット三原則」を考案し、その基準のうえに物語を描いたのであると論じる。そしてアシモフの三原則はほとんどのロボット作品にもあてはまるものであることを論証した。

 第2章では、ロボットの概念をさらに拡大し、人間によって作られ、人間の形状をもち、自動的に動くことのできるものとして、1818年のゴシックロマンス『フランケンシュタイン』に描かれたモンスターを取り上げ、アシモフが「フランケンシュタイン・コンプレックス」と名付けた不安がどのようなものであり、フランケンシュタインとモンスターの関係はどのようなものであるのかについて、フランケンシュタインの心情にそって分析する。人間を模したものを作り出すことへの不安は、ロボットの生産が実現する以前から近代の想像力として存在したことを論証した。

 第3章では、人間と同等、もしくは人間を超越するほどの知能を備え、人間と見間違うかのような精巧な外見をしたロボットの出現を描く『エクス・マキナ』を取り上げ、その構造をギリシャ悲劇の手法である「デウス・エクス・マキナ」を応用して分析する。機械仕掛けの神を意味する「デウス・エクス・マキナ」は、「神が登場しなくとも、また機械じかけが用いられなくとも、有機的な展開とは無関係な偶然的要因によって物語に決着をつける便宜的な技法」のことであり、『エクス・マキナ』は冒頭から中盤までは、人間そっくりの女性性をまとうロボットを製作する男性がデウス(=物語の展開を左右する力をもつ者)として動くが、終盤において、エヴァと名付けられたロボットがその位置につくことの意味を論じた。そして、あらゆる決定権をもつことになったエヴァが物語の枠組みを自ら越境し、行くあてもなく歩き始めることが、デウスによる物語の終幕を期待させつつ、デウスなきエンディングとなっていることを論じ、そこに生まれる不安定な物語の結末が「フランケンシュタイン・コンプレックス」に通じる未来への不安を駆り立てるのだと結論付けた。

 技術が進み、人間そっくりのロボットの実現も架空のファンタジーではなくなろうとしている現代の不安が物語の構造を通して表現されているからこそ、『エクス・マキナ』はSFでありながらリアリティのある展開になっているというのが本論文の見解であり、現代の不安は、命の創造という錬金術的なテーマを描く『フランケンシュタイン』にもつながるものであると論じた。

 ゴシックロマンスからSF映画まで、ロボットをめぐる想像力にはつねに不安があること、そしてその不安さえも娯楽に落とし込むのが文化であることを論じた。

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★助手 高野