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星川啓慈教授の新刊案内: A・キートリー『ウィトゲンシュタイン・文法・神』の翻訳(文庫版)

宗教哲学専攻 星川啓慈

Photo by T.Watanabe

 32年前(1989年)に、A・キートリー著『ウィトゲンシュタイン・文法・神』の翻訳書を出版しました。私にとっては、その1年後(1990年)に出版した著書『宗教者ウィトゲンシュタイン』と兄弟のような本です。
 後者は、ウィトゲンシュタイン自身の宗教(観)について論じたもので、2020年に大幅に加筆したうえで、『増補・宗教者ウィトゲンシュタイン』(法蔵館文庫)として文庫版となりました――以前にこのブログでも紹介したとおりです。
 前者は、ウィトゲンシュタインの哲学を宗教の理解に応用したもので、今回(2021年)かなり加筆したうえで、同じく『ウィトゲンシュタイン・文法・神』(法蔵館文庫)として、文庫版となりました。
 これら2冊が補い合って、「ウィトゲンシュタインと宗教」をめぐる問題領域をカバーしています。もちろん、その全領域をカバーしているわけではありませんが。

 さきに述べたように、これら2冊は兄弟の関係にあるので、装丁を担当していただいた熊谷博人先生にお願いして、「兄弟の感じを出してくださるとありがたいです」とお願いしました。

 キートリーの『ウィトゲンシュタイン・文法・神』はいわゆる「専門書」ですが、「訳者あとがき」に書いた内容を1つだけ紹介しておきましょう。

……映画監督のD・ジャーマンは1993年に『ウィトゲンシュタイン』を撮った。 そのなかで、ウィトゲンシュタインが「哲学の問題は複数の言語ゲームを混同して起きる。たとえば、人は魂の本質について思い悩むが、それは魂を一つの物体のように考えるからだ。ある言い方を別の言い方と混同しているのだ」と語る場面がある(シーン49)。すなわち、次のようなことである。「ある物体が存在する」ことをめぐる言語ゲームと「死後も魂は存在する」ことをめぐる言語ゲームとがある。前者は「ある物体の存在」をいわば客観的に記述しているのだが、後者は「死後の魂の存在」を客観的に記述しているのではない。それは、自分の信念を主体的に表出しているのである。つまり、本書でいうところの「表出的言語」なのである。二つの言語ゲームで共通に使用されている「存在する」という語にひかれて、二つの異質な言語ゲームを決して「混同」してはならない。

 みなさんも日常生活で「言語ゲームを取り違えて」いろいろな問題に直面しているということはないでしょうか。
 2021年の春先から日本の「国難」といえるほどにもなった「コロナ禍」も、感染をストップさせようという「言語ゲーム」と、経済を立て直そうという「言語ゲーム」が混乱を引き起こしたといってよいでしょう。この場合、どちらも正しい言語ゲームなのですが、異質な2つの言語ゲームをうまく調停することは至難の業なのです。
 医学(感染症学)の「文法」にはそれ独自の文法が、経済の「文法」にはそれ独自の文法があるのです。これと同じく、宗教には宗教独自の「文法」があります。それは自然科学の「文法」や無神論の「文法」とは異なるものです。

 キートリーの『ウィトゲンシュタイン・文法・神』のごくごく一部と関連することを述べました。これ以外にも、⑴「神」という言葉は指示対象をもつか否か、⑵神は客観的実在として理解する以外に道はないのか、⑶「宗教言語」とはどのような性質をもった言語なのか、⑷宗教は最終的にそれ以外の心理的なもの/社会的なものに還元できるのか、などといった問題と取り組むときに、この本訳書は有意義な論点/観点を提供してくれるでしょう。