学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

戦争と文化(4)――戦闘の心理

はじめに

 クレフェルトの『戦争文化論』には「戦闘の楽しみ」という章があります。筆者も、このタイトルには眉をひそめました。しかしながら、戦争を研究している彼の議論には、驚かされること、頷かされることも何度となくありました。今回のブログは、戦争についての連載の中でも、最も重要な内容をふくんでいます。信じられないようなこともあるかと思いますが、最後まで読んでください。断っておきますが、筆者は決して戦争を肯定する者ではありません。

 

フロイトの『文化への不満』

第一次世界大戦が終わって10年以上たってから、フロイトは戦争のぞっとするような死や破壊についての理解を深めることを目的に、『文化への不満』(Das Unbehagen in der Kultur, 1930)を書いたといわれています。クレフェルトもこの著作を重要視して、紹介しています。この本でフロイトが主張していることは、クレフェルトによれば、「文化的生活というものは、人間が、その心の根源的な欲求に逆らって、心と身体に抑制を加えることによって成立している」ということです。

 

ジークムント.jpg

私たちの生活をふりかえってみても、「~したい」という種々の願望や欲望がありますね。しかし、多くの場合、そうした願望や欲望を実現することはできません。なぜなら、社会には社会を成立させるルールがあり、多くの場合、これらは私たちの願望や欲望の実現を阻止するように働いているからです。例をあげなくても、わかりますね。フロイト的にいうならば、私たちは、自分の内面から湧きあがる欲求・欲望・願望と、それらの実現を外部から阻止する社会的・文化的な規制という、反対方向を向いた2つのベクトルに挟まれながら、生活しているのです。皆さんも、自分の生活ふりかえって、思い当たることはありませんか? 

 

「戦争という楽しみ」

クレフェルトは、上のようなフロイトの考え方を踏まえて、「この主張が正しいとすれば、人々がこの抑圧から自由になる方策をいろいろと、たえず求めている実態は少しも驚くべきことではない」と論じています。もうお分かりかもしれませんが、その抑圧から自由になるための方策の1つが戦争であっても、不思議ではないのです。

いつの時代、どこの国でも、この「抑圧から自由になる」という目的のために、多種多様な方法を使ってきました。クレフェルトは多くの例をあげています。酒・ドラッグ・スポーツ・音楽・儀式・愛・性交・侵略…。こうしたものの1つが戦争です。もちろん、こうした方法が併用されることも多いことは、いうまでもありません。

 第1部第6章「戦闘の楽しみ」は、衝撃的な書き出しです。

 時代と場所を問わず、おそらく大部分の人は戦争に嫌悪の感情をもっているだろう。戦争には苦しみや困難が伴うから。暴力、荒廃を引き起こし、流血を招くから。戦争のあとには悲しみが残るから。ところが、人間は戦争を憎悪しながらも――戦争を嫌悪している人でさえ――戦争を楽しむことに抵抗を感じていない。戦争を待ち望み、始まれば大いに楽しみ、終結すれば誇らしい気持ちで振り返る。

また、他の箇所では、「同じ人間が戦争に対する嫌悪と歓喜をほとんど同時にもてる」ことに注目しています。この2つの感情(戦争に対する嫌悪と歓喜)はまったく別のものではなく、「コインの両面」なのです。

「戦争の楽しみ」を語る、著名人の言葉を引用しましょう。チャーチルは「戦争には〈忌わしい魅力〉がある」、ヒトラーは「軍人の生活が一番好きだ」、パットンは「戦争が好きでたまらない」と語っているそうです。皆さんは彼らの言葉を信じられるでしょうか?

 

戦闘05.jpg 

戦闘の心理

戦争が本格的に始まると、人はどのような心理状態になるのでしょうか。まず、戦争がはじまると、それまでの社会の常識的な価値観とは異質な価値観が顔を出します。このことについて、クレフェルトは次のように語っています。

 戦争なり戦闘が本格的に始まると、人々は普通の世界を離れ、行動に関する通常のルールが当てはまらない別の世界へ足を踏み入れる。緊張が高まるにつれ、人の視野は狭くなる。…行動の規範はヘビが脱皮するように忘れられ、捨てられる。懸念・心配・義務・結びつきなど、他人がわれわれに求め、期待する多くのものもそうなる。要するに、それまでもっとも大事だったものが忘れられ、それまでもっとも非道とされていたことがやってもいいことになる。

 そして、クレフェルトは、恐ろしい危険が目前に迫ると人々は二重の経験をする、といいます。つまり、「一方では、その人の個性が全開になる。同時に、不必要なものはすべて忘れるという異常なまでの集中が生じる」のです。

 もちろん、研究者の中には「人を殺すことは人間の本性に反する」という人もいます。当然です。筆者もそのように感じます。しかし、クレフェルトは、人類の歴史をふりかえりながら、ほとんどの期間において「男は狩りをして女は果実などを採集してきた」という事実を指摘します。つまり、「男は狩りの楽しみを遺伝子のなかに仕込み、女はそうしなかった」というのです――こうした見解には、歴史学者・文化人類学者・進化心理学者から反論があるかもしれません。その「狩り」というのは、言うまでもなく、動物を殺すことです。戦争になると、殺す対象が動物ではなく、人間になります。そして、時として「殺すことが楽しい」ことになるそうです。

これ以上クレフェルトの言葉を引用することは控えます。しかしながら、彼は人間や動物のもつ残酷な側面や破壊的な側面を、日常的な生活からいろいろと指摘しています。2つだけ紹介しておきましょう。たとえば、レゴブロックや積木で遊んでいる子どもたちは、組み立てることに喜びを感じるのはいうまでもありません。しかし、クレフェルトは「子どもたちは、組み立てたものを壊すことも楽しんでいる」といいます。また、自動車レースを見にいく人たちのかなり多くは「事故が起きればいいのに」と内心思いながら、レースを見にいくとも語っています。研究者ならずとも、反論もあるでしょう。たとえば、筆者は小さい頃、積木やブロックでいろいろなものを創ることは大変好きでした。しかし、壊すのはもったいなくて嫌いでした。創ったものは壊さずに、次の機会まで飾っておいたように記憶しています。

 

おわりに

 今回は、クレフェルトに従いながら、人間のダークな側面を垣間見ました。彼の主張に対して反論する研究者もいることでしょう。筆者も彼の主張を全面的に受け入れたくはありません。しかしながら、フロイトやクレフェルトが論じるような、ダークな側面が「人間に皆無である」とも言えないと思います。

 文化を理解するというのは、楽しいことばかりではありません。人間のダークな側面は、アニメや漫画やファンタジーでも、重要な役割を果たしているのではないでしょうか? また、人間のダークな側面を知ることも、文化研究ではある程度は重要です。

 平和を望む筆者としては、なんらかの形でクレフェルトとは別の観点から、「戦場の心理」について考えてみたいと思っています。筆者は彼の意見には全面的には賛成できません。おそらく戦場においても、「平和を志向する人間の行動」が必ずや見られると思うのです。

 次回は、グロスマンの衝撃的な『戦争における「人殺し」の心理学』を参考にしながら、クレフェルトとは違う見解を提示したいと思っています。結論をいうと、「戦闘という極限状態に臨んでも、人は人を殺したがらない」、さらにいうと、「自分が殺されても、人を殺したくない」という人が多いのです。このことについて、実証的な研究を参照しながら、考えてみましょう。

 アップは、第1金曜日ですから、2月3日の金曜日です。一般入試・編入入試の日ですね。

 

星川啓慈

 

【参考文献】

(1)M・クレフェルト(石津朋之監訳)『戦争文化論』原書房、2011年、第1部第6章「戦闘の楽しみ」。

(2)D・グロスマン(安原和見訳)『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、2010年。

GO TOP