学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

カルスタ漫画・アニメ・ゲーム研究会「トワイライト」の活動報告⑬

大学は夏休み期間ですが、トワイライトのメンバーから、春学期の活動を振り返り、報告が届いています。

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こんにちはMAです。かなり遅くなってしまいましたが、私が担当した2回のトワイライトの報告をしたいと思います。鑑賞したのは洋画の『モナリザ・スマイル』とアニメーション映画の『スカイ・クロラ』の2作です。

 

 『モナリザ・スマイル』は女子大学に新しく赴任した若い美術の女性講師キャサリンと、女子学生たちの交流を描いた映画です。女子大学の学生を“良き妻”に育てるという雰囲気と、それに同調する女子学生たちにキャサリンは反発し、女子学生もキャサリンの影響を受けて行きます。この映画の時代設定は1950年代で、この時代は第二次世界大戦が終わって、戦時中は工場などに駆り出されていた女性たちが家庭に戻らされて、妻は家にいるのが普通だという風潮のあった時代です。キャサリンはそんな中で、女子学生たちに自立することを求めていきます。

私が思うに、キャサリンが求めた自立とは主婦になるのではなく、自分で働いて幸せを掴むことだったように感じます。しかし、面白いのは作中で一番家庭に入ることを受け入れていた学生が男性を頼らない自立を選び、進学したいと思っていた学生が家庭に入ることを選んだことです。家庭に入ることを選んだ学生はキャサリンに「自分で納得して選んだこと」であることを伝えます。キャサリン自身は恋人を捨て、大学を去って新しい場所に行くことを決めました。結局、この映画は何をいいたかったのだろうと考えると、どのような決断でも自分の意志で決めろということになるのかなと思います。映画は女性の自立を主題において描いているように見えましたが、家庭を否定せず、家庭の中にいても自立することができると言っているように思いました。

この映画で考えさせられたのは、「経済的な自立」と「精神的な自立」がイコールではないということなのだと考えました。家庭に従事してしまったら、夫に妻は経済的に依存することになることが多いですが、それでも心まで依存することはないでしょう。自立という言葉を使うとき、経済的側面と精神的側面を切り離して使うことは難しいかと思いますが、自分の心を抑圧してはいけないと、『モナリザ・スマイル』を鑑賞して考えました。

 

『スカイ・クロラ』は「ショーとしての戦争」に参加して戦い、そこで生きることを定められた、永遠に思春期の姿のままの子どもたちの物語です。原作は小説でシリーズ物らしいのですが、今回は映画『スカイ・クロラ』についてだけで報告します。

『スカイ・クロラ』で永遠に思春期の姿のままの子どもたちは、“キルドレ”と呼ばれています。この作品の中心人物は女のキルドレの草薙水素と男のキルドレの函南優一の二人です。

私は「大人と子どもの違いはどこにあるのかな」と感じました。水素も優一も他のキルドレたちも、お酒を飲んだり、煙草を吸ったり、それこそ戦闘機に乗って戦争をしていて、やっていることは大人と大差ないのです。でも、キルドレは子どもとして作中で扱われていますし、キルドレたちも自身を子どもだと考えています。作中で優一はこの様にいいます。

 

「でも、明日死ぬかもしれない人間が大人になる必要があるのでしょうか」(51分8秒)

 

 大人になるということはどういうことなのでしょうか。何を持ってして大人になるといえるのでしょうか。確かに優一のいう通り、明日が来ないのであれば大人になろうと成長しなくともいいのかもしれません。でも、優一のこの言い方は大人になることを放棄しているようにも思えるのです。それは、前に進もうという意思を持っていないことだと私は考えます。前に進むということは、望んで生きるということです。優一には生きたいという意思が薄いように思います。しかし、物語終盤で彼は水素に

 

  「君は生きろ、何かを変えられるまで」(1時間40分17秒)

 

といいます。その後、彼はティーチャーと呼ばれる大人でありながら、戦争に参加している人物と遭遇すると、「これは僕の戦闘だ」といって一人ティーチャーに向かって行き、戦死します。生きることに関心の薄い優一が、水素に生きることを勧めたこと、そして、自分の意志で戦うことを決めたことは大きな変化だと考えられます。優一は最後に前に進もうとしたのではないでしょうか。前に進むために、通過儀礼として自分の意志で大人に立ち向かって行ったのではないでしょうか。大人になるということが、どのようなことなのかは簡単に結論が出ると思いませんし、一つだけではないとも思いますが、優一にとっては、「ショーとしての戦争」を仕かけている大人という記号に立ち向かうこと、同じ場に立つことだったのではないかと考えます。

確かに、子供の成長の過程では親などの大人と対立したりします。そして、大人と呼ばれるぐらいになると、自分と同じ大人と呼ばれる人たちと対等な場に立って関係を持たないといけないでしょう。優一の出した「大人になること」は実際にそうなのかもしれないなと思いました。

 

 

以上で報告を終わります。

最近、このブログを学外の方も見て下さっていることを知る機会がり、大変驚きました。どなたに見られても恥ずかしくない報告を書くことを心がけたいと思います。

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考えたことを文章にまとめる、考察を論理的に説明する、なかなか難しいことですが、言語表現を自在に操る力をさらに高めたい、と日々努力する学生たちです。
大好きなものを題材に、考える力、論じる力を磨くトワイライトのメンバーたち、これからも楽しみながら実力を培ってください。

                                         ♪伊藤淑子

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