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国際文化コース

2017年度の「カルスタ賞」決定!

はじめに

 カルチュラルスタディーズコース(カルスタ)では、毎年、論文集『私たちのカルスタ』を刊行しています。今回で「第8号」になりました。
 これは、年度ごとの企画委員の人たちの熱意と頑張りによるものです。昨年度の企画委員の人たち、本当にありがとう! 投稿者は12年生で、総論文数は、今年は37編でした。
 以下では、2017年度(2018年度ではありません)の「カルスタ賞」の最終選考の結果を、皆さんにお伝えします。

 

カルスタ賞の選考方法

 選考は2回にわけて行いました。第一段階として、「全員投票」で上位にきた作品を選んだ結果、6論文が最終選考に残りました。受賞した6論文の最後に挙げているのが、28人の学生による得票数です。今年は、得票数が競り合っているのが特徴です。第二段階として、選考担当の教員・星川がそれらを読み、金賞・銀賞・銅賞・佳作を決定しました。
  最終選考では、⑴着眼点、⑵自分の意見の有無、⑶議論の論理的な展開、⑷論旨の一貫性、⑸議論の説得性、⑹結論の明快さ、⑺文章力、⑻形式などを踏まえて、総合的に選考しました。
 毎年書いていることですが、書かれたものの評価は、往々にして、評価する人によって異なります。それは、多くの賞やコンクールで、審査員の意見が食い違うことに見られます。したがって、今回賞を取った人も取れなかった人も、学生諸君の投票結果ならびに選考結果に、一喜一憂しすぎないでください。まぁ、カルスタの論文集の「オマケ」くらいに考えておいてください。


金賞: 乾山泰生「ピエロはなぜ怖いのか」(13票)

銀賞: 宮川みなみ「西洋のドラゴン、東洋の龍の違い」(10票)

銅賞: 下田伶奈「〈お洒落〉をすること――自己意識による理想のお洒落と自身向上」(11票)

佳作: 大橋郁実「神話や昔話はファンタジーか」(10票)

佳作: 酒井紗彩「ゲーム依存解消に向けてのゲームシステムの見直し――ゲーム利用者ではなくゲーム会社によるゲーム依存解消」(9票)

佳作: 犬尾真由「〈制服〉について」(9票)

               





表彰式の様子



個々の作品へのコメント

 個々の論文にたいするコメントはすべて、投稿者全員に向けられたものです。「自分と関係ない」と思わないでください。論文集の作成は「カルスタの教育の一環」ですからね。さらに、個々の論文は将来の卒業論文の雛型ですからね。コメントの文体は「常体」にします。

乾山論文へのコメント


 評価できる点は、多くの情報を盛り込んでいるうえに、論旨が一貫している点である。「はじめに」と「おわりに」も対応している。「ピエロの両義的意味」の指摘も良い。
 金賞という最高の評価をしているので、あえて、コメントは辛口にする(銀賞・銅賞についても同じ)。
 われわれが良く知っているようで、それほど知らないピエロについて、多くの事柄を著者は教えてくれた。この点は評価できる。その歴史、その恐怖の原因、その不気味さ、その両義性…。とりわけ、最後の「両義性」は重要概念なので、もう少し丁寧な説明をすれば、さらに読者に分かり易くなったであろう。これは文化を理解するためにも重要な事柄である。残念なことに、「考察」に見られる両義性の議論がシャープさに欠ける。何と何とが両義的なのかを、もっとクリアに書くべきであった。
 多くの読者に読んでいただくものとしては、日本語の表現力が足りない。もしくは、推敲が足りない。例えば、8頁では、(1)改行のさいの段落が落ちていない、(2)「死体をすべて」は「死体はすべて」、(3)「原型」は「原形」…。9頁では、ムスキエティの引用の最後の文は正確か、また、肝心かなめの締めの言葉は「そして、今回のテーマにもなっている、人を喜ばせる存在であるのに、恐怖の意味も含む両義的な存在であるからこそ、ピエロは怖がられるのだと、証明された」だが、この文はどうだろう。何と何とが両義的なのか、がわかりにくい――「人を喜ばせる存在」と「恐怖の意味」か。しかし、そうだとすると、「存在」と「意味」とは両義的関係にはならない。そこで、「ピエロは、人を喜ばせる存在であると同時に、人に恐怖感を与える存在であるから、両義的存在である。そして、その両義性こそが、さらにピエロを不気味なものにしているといえるであろう」くらいではどうか。これなら、読者に分かり易いであろう。
 著者は「証明」という言葉が大変好きらしいが、厳密にいうと数学とちがって、カルスタでは「証明」は難しい。ほかの表現も考えてみることを勧める。
 最後の「今後の課題」は、1つの作品としてのまとまりという観点からは、削除したほうが良いと思う――そのほうが美しい。評者は常々「美しい/エレガントな論文をたった1つでもいいから書いて死にたい」と思っている。
 論文とは関係ないし、山口昌男/ヤン・コットの文章の引用であるから、仕方のないことだが、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』は『夏の夜の夢』とすべきではないか。原題はA Midsummer Night’s Dream である。”midsummer” の訳語としては、「真夏」以外にも、「盛夏」「夏至」なども思い浮かぶ。伊藤先生によれば、この ”midsummer” は「夏至」だそうである。だとすれば、原題の訳は『夏至の夜の夢』となるだろう。伊藤先生がそのように訳すべきだと主張しているのではないが、これでは何となく文学的ではない気がするね(笑)。
 ところで、イギリスの一般的な「真夏」と日本の一般的な「真夏」はまったく違う。個々の言葉には「含蓄」というものがある。一般に「蒸し暑くて眠れない」という含蓄をもつ日本語の「真夏」と比べれば、イギリスの「真夏」は爽やかである。評者も同地に滞在していた時のことを懐かしく思い出す。
 そこで、評者としては、A Midsummer Night’s Dreamの訳としては、やはり『夏の夜の夢』がベストのような気がする。「翻訳」の問題として、本や戯曲などのタイトルの翻訳についても考えてみてほしい。

宮川論文へのコメント


 この論文も、多くの情報を盛り込んでいるところは評価できる。「はじめに」と「おわりに」の対応もまずまずである。
 論文の冒頭/書き出しは重要である。宮川論文の冒頭はこうだ――「今回私がテーマとして取り上げるのは『ファンタジー』だ。そのなかでも、ファンタジー小説や映画などに出てくるドラゴンと龍について触れていく」。しかし、「テーマとして取り上げるのは『ファンタジー』だ」というわりには、ファンタジーがテーマになっているとは思えない。内容的には、どうみても、タイトルの「西洋のドラゴン、東洋の龍の違い」がテーマである。たしかに途中で『ホビット』や『ホビットの冒険』には言及されているものの、結論にあたる「おわりに」を読んでも、ファンタジーは出てこない。そこで、冒頭は「今回私がテーマとして取り上げるのは、『ファンタジー』によく出てくるドラゴンと龍の東西比較だ」とでもすれば良いのではないか。これだと、スッキリしているうえに、論文の内容をズバリ言い当てている。
 種々の文化には、共通点もあれば相違点もある。著者は、インド・中国・日本の「龍」の共通点を、「水」との密接な関係に注目しながら述べている。その一方で、16頁において、中国の文化とインドの文化には「明確な違い」もあることを論じている。つまり、「インドでは蛇の信仰を元にナーガが形成されているのに対し、中国では龍が聖なる獣とみられるのとは逆に、蛇は自身の持つ毒性を強調され疎まれるようになったのだ」。論文における議論の流れからいうと、共通点を述べているところで、突然、相違点が出てくる。これでは、主張が弱くなるだろう。技術的には、「両者の明確な違いを挙げるのなら」以下を、注に回せば良いのである。そうすると、論旨が一貫しているうえに、「相違点も見落としていませんよ」という意思表示にもなる。
 「おわりに」では、ファンタジーにこだわるならば、ファンタジーとドラゴンや龍との関係について、一言だけ述べることも考えられる。例えば、当否は別として、「西洋文化と東洋文化に見られるドラゴンや龍の性格の相違は、そのまま、西洋で制作されたファンタジーと東洋で制作されたファンタジーに反映されている」などと。
 著者は「触れていく」という表現が好きなようだが、論文ではあまり見ないので、他の表現も考えてみたらどうだろう。
 乾山論文の場合と同じ指摘だが、最後の締めの「これを機に、西洋と東洋どちらにも存在する生物で、文化的価値観や宗教観によって扱われ方が違ってくるのかを深く掘り下げていきたい」という一文も、評者の好みからいわせてもらうと、削除したほうが美しいと思う。

下田論文へのコメント

 
 評者は、著者のいう「自分の外見を〔それほど〕気にしない」「お洒落ではない人」に属するから、また、「外見心理学」的に評価が低いだろうから、この論文の評者として相応しくないかもしれない。しかし、そういう評者だから、「ハロー効果」など、大変勉強になった。また、著者の述べたいことも充分に理解できた。以下では、評者の不得意な「お洒落」を離れて論評しよう。
 著者は、「お洒落をすることやしている人及び、それに伴って発生する心理的効果について論じていく」のだが、論理的整合性はどうであろうか。著者は、一方で「自分にとってはお洒落であっても、他人にとってはお洒落とは言いがたい場合がある」とか「お洒落は非常に主観的なものだ」という主張をしながら、他方で「他人の客観的な意見は、〔私の〕お洒落にとって重要なものだ。自分ひとりでお洒落かどうか判断できない場合は、他人に〔客観的〕意見を求めるのである」とも論じている。これらの文章を読むと、著者は、他人は主観的な自分ではないから他人の意見は客観的だ、と考えているのかもしれない――そういう気持ちはよくわかる。しかし、他人の「客観的な意見」もしょせん「主観的なもの」ではないのか。なぜなら、「他人」といえども、自分と同じ「主観的」人間なのだから。おそらく、自分に種々の指摘をしてくれる10人の他人の意見がことごとく一致することはないであろう。ひょっとしたら、10人がみんな違うことをいうかもしれない。
 細かな突っ込みで著者は気分を害するかもしれないが、ここをきちんと書けばさらに優れた論文になったであろう。もちろん、本格的に上のことを論じるとなれば、それは著者の手に余るであろうし、そこまで要求するつもりはない。だが、「自分は鏡の前で自分を客観的にみているようでも、自分の内面や主観がその視線に影響を与える。これに対して、他人は私の内面や主観に影響されないから、私のお洒落について少なくとも私よりも客観的に判断できる」といった趣旨のことを書いておけばよかった。つまり、「主観」をめぐる自分と他人の対称性を否定しておくのである。
 これまで、注や文献の挙げ方については述べてこなかったので、この論文を参考にしながら、注や文献の挙げ方について述べておきたい。著者は出典を示す注の「2」で次のように書いている――「井上俊、船津衛 (2005)『自己と他者の社会学 Sociology of the Self and Others』有斐閣 p7 5-6行目」。これだと、著者が引用した部分は、井上・船津両氏が書いた著作の75頁―76頁からの引用だということになる。この表記は問題である。
 まず、この著作は井上・船津両氏のみによって書かれたものではない。これは論文集であり、14人の執筆者がいる。両氏は「編者」である。「p7 5-6行目〔ママ〕」からの引用だとすると、注2の引用は、下田論文の内容から推測するに、草柳千早氏の論文「演じる私」からの引用ではないか(少なくとも、井上・船津両氏の共同執筆ではない!)。
 もしも草柳論文だとすれば――大村英昭「期待される私」か、井上俊「感じる私」の可能性もあるが――、「草柳千早「演じる私」(井上・船津編『自己と他者の社会学』所収)pp. 75-76.」とでもすべきであろう。そして、参考文献に「井上俊、船津衛編 (2005)『自己と他者の社会学 Sociology of the Self and Others』有斐閣」と書いておけば良かった。
 さらに、評者の調べに間違いがあれば素直に謝るが、国立国会図書館サーチなど複数のもので調べた限りでは、この論文集に Sociology of the Self and Others”という副題はついていなかった。もしもその論文集に英語の副題がついていないとすれば、創作して書くべきではない。もちろん、書かれていれば書くべきであるが。
 言いたいことは、ただ1つ。「出典を正確に/精確に表記しなければならない」ということである。

佳作の論文については、一言だけコメントする。

 酒井論文: 「課金などのゲーム依存というと、利用者への注意や対策が求められるが、一概に利用者が悪いのではなく、ゲーム会社にも問題がある」という問題意識のもと、「スマホアプリの課金を中心に、スマホアプリの現状を明らかにしつつ、ゲーム依存という問題に対する会社側の対策」について、自分の考え方がきちんと述べられていた。しかし、ギャンブル性のあるゲームへの「依存症」はなかなか消滅しないだろう。「おわりに」にある「今現在ゲームでなくとも」以下部分は、それまでの議論の流れとは異質なので、削除したほうが良い。

 大橋論文: 辞書的定義に従って、「神話や昔話」を「ファンタジー」として整理していくのはそれなりに筋がとおっているともいえるが、評者には面白味に欠ける。著者自身のファンタジー論を展開してほしかった。言いかえれば、辞書的な分類に収まらないような議論を展開してほしかった。また、「〈ファンタジー〉という分野は最近になってできあがったものでなく」というが、昔の人には「ファンタジー」という概念がなかったわけだから、現代人との「ファンタジー」をめぐる認識の違いについて考えることも必要であろう。

 犬尾論文: 「はじめに」と「おわりに」の間に3つのテーマを挟んでいるが、それらの間にあるべき有機的繋がりが希薄ではないか。もう少し、議論の流れというものを念頭におきながら、論文のコンストラクション(構成)について考えるのが良いだろう。比喩的にいうならば、2+2+2=6 だが、2×2×2=8 である。

おわりに


 2017年度のカルスタ賞の講評は、以上で終わりとします。また来年も、素晴らしい論文集『私たちのカルスタ』が出来上がることを、教員一同、楽しみにしています。
 最後に、論文集に投稿してくれたカルスタの学生の皆さんや企画委員や運営委員の人たちにも御礼を述べて、擱筆します。
ありがとう!


2017年度 カルスタシンポジウム企画委員

星川啓慈(人文学科カルチュラルスタディーズ教授)
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