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「レット・イット・ビー」の歌詞とウィトゲンシュタインの『日記』 ――「レット・イット・ビー」の歌詞を宗教的観点から深堀りする――

「レット・イット・ビー」の歌詞とウィトゲンシュタインの『日記』
――「レット・イット・ビー」の歌詞を宗教的観点から深堀りする――


 今回は、星川啓慈先生が「〈レット・イット・ビー〉の歌詞とウィトゲンシュタインの『日記』」というタイトルで「異文化体験」の連載を書いてくださいました。星川先生によれば、「外国語の歌詞を読んで解釈するのも〈異文化体験〉の1つ」とのことです。ぜひお楽しみください!

はじめに

 今回は、ポール・マッカートニーが創った「レット・イット・ビー」の歌詞とL・ウィトゲンシュタイン(オーストリア生まれの哲学者、1889年-1951年)の『哲学宗教日記』(以下『日記』)の書付を読み合わせながら、「レット・イット・ビー」の歌詞を宗教的観点から深堀りしたいと思います。
 なお、本ブログの下線はほとんどすべて私のものです。また、学術論文ではないので、一部のごく細かな部分で編集しているところもあります。

「レット・イット・ビー」のレコードのジャケット

第Ⅰ部
「レット・イット・ビー」の歌詞と “be” について

 1.「レット・イット・ビー」の歌詞は「宗教的なものである」
 知っている読者もいるとは思いますが、「レット・イット・ビー」の歌詞は「宗教的なものである」という説があります。2つほど紹介します。
 ⑴Wikipediaの「レット・イット・ビー(曲)」によれば、以下のようにあります。

 マッカートニーが、1968年に行われたアルバム『ザ・ビートルズ』のためのセッションの最中で、ビートルズが分裂しつつあるのを悲観している頃に、亡き母メアリーが夢枕に現れた際に述べた「あるがままをあるがままに(全てを)受け容れるのです」との囁きを元に書いたと語っている。マッカートニーの母であるメアリーは、彼が14歳の頃にガンで死去した。亡き母が夢枕に現れたことについて、マッカートニーは「母に再会できたのは本当によかった。夢で祝福された気分だった。だから僕は母の囁きを元に『レット・イット・ビー』を書いたんだ」と語っている。なお、英文では「Mother Mary」とは聖母マリアを指すため、聖母マリアを題材にした楽曲という解釈も存在する。英文の感覚では、「let it be」(レット・イット・ビー)とは次の引用のような、受胎告知に対する「…成りますように」というマリアの応答である。
 そこでマリアが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように〔意味不明→後述〕」。そして御使は彼女から離れて行った。「ルカによる福音書」(1:38)

 「これについて」、マッカートニーは「聖母マリアのことだと解釈してくれても構わない」と答えているそうですが、やや分かりにくいですね。文脈から判断して、「これ」とはおそらく、夢枕に現われたのは母親のメアリーではなく聖母マリアであった、ということでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC_(%E6%9B%B2) 2024年1月閲覧

ポール・マッカートニー


 ⑵また、「ザ・ビートルズの名曲〈Let It Be〉 こんな意味の曲だった」というサイトには、つぎのようにあります。

 アルバムのタイトルにもなったこの曲は、ポール・マッカートニーがビートルズの分裂を悲しんでいた時に、亡き母が「あるがままを、あるがままに(すべてを)受け入れるのです」とささやいたというのが本来の歌詞の意味です。
 この「Mother Mary」を聖母マリアと解釈する人が多いのは、受胎告知の場面でマリアが言った「お言葉どおり、この身になりますように〔意味不明→後述〕」(「ルカによる福音書」1:38)という聖句が、英語では「let it be to me according to your word」(English Standard Versionなど)とあるからです。https://basicenglishcamp.wordpress.com/2016/05/20/let-it-be/ 2024年1月閲覧

 こうした解説と異なる説もありますが、註に書いておきます

2.“be” という言葉について
 「レット・イット・ビー」の場合の “be” の意味は強いていうならば「そのままの状態である」ですが、この“be” は深淵な言葉です。
 ヨーロッパ文明には、⑴ヘブライズム――旧約聖書などにみられる古代イスラエル民族の思想や文化に由来する精神――と、⑵ヘレニズム――ギリシア的な思想や文化に由来する精神――という2つの潮流が流れ込んでいる、といわれています。
 ⑴のユダヤ=キリスト教の伝統において、「神」は「在りて在るもの」(I Am That I Am)とされます。おそらく、この “Am/am” (”be” の一人称単数形)は、現在形ですが、過去・現在・未来という時制を貫いていると思われます。神は時間による制約を受けない/時間を超越しているからです。
 ⑵20世紀最大の哲学者の1人である、M・ハイデガー(ドイツ生まれの哲学者、1889-1976年)の名著『存在と時間』の原書のタイトルはSein unt Zeit ですが、”Sein” は “Being” です。古代ギリシア以来「存在とは何か」という問題が哲学者たちによって議論されてきていますが、難問中の難問です。
 ちなみに、後ほど登場するウィトゲンシュタインは、ハイデガーと同い年で、彼もまた20世紀を代表する哲学者ですが、次のように述べています——「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界がある(ist)ということなのである」(『論理哲学論考』)。
 世界がいかにあるかというのは、そもそもその世界が存在していないとありえない問いでしょう。皆さんも「世界が存在している」こと自体に神秘・驚き・不思議を感じませんか…。私は、世界の存在にも、自分自身の存在にも神秘・驚き・不思議を感じます。「世界がある〔存在する〕」の「ある」は “ist” ですが、これは英語の “is” に相当します。つまり、「be動詞」なのです。

3.ユダヤ=キリスト教の「神」と「存在」
 ヘブライズムとの関連では、旧約聖書の「出エジプト記」(3-14, 15)には、次のように書かれています。

神はモーセに言われた、「わたしは、在って在る者〔I Am That I Am/I Am Who I Am〕」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは在る〔I Am〕」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である

 一言でいうと、ユダヤ=キリスト教の神(の名)は「存在」(That I Am/Who I Am)だということでしょう。いずれにせよ、私たちが何気なく使っている「be動詞」は「神」ときわめて密接な関係があり、西洋文化において「ある」「存在する」というのは極めて深淵な言葉であることは間違いありません。
 この「出エジプト記」の「存在」(Being)としての「神」と、ビートルズの「レット・イット・ビー」の歌詞の “be” とは、2000年以上を隔てていてもどこかで繋がっているような気がします。「文化」というものはそういうものではないでしょうか…。

4.「レット・イット・ビー」の歌詞の意味
 ここで「レット・イット・ビー」の歌詞の意味について考えましょう。歌詞の原文と訳文は「5月8日は〈レット・イット・ビー〉の発売日」というサイトからお借りします。私には、こんなにこなれた日本語には翻訳できませんからね。最初に原文、つづいて日本語訳を示します。
 くり返しますが、ポール・マッカートニーの母親の「メアリー」(Mary)は、先にでてきた「ルカによる福音書」に登場する「聖母マリア」の「マリア」(Maria)の変形です。さまざまな言語には、さまざまな「マリア」の変形があります。ついでながら、「ポール・マッカートニー」の「Paul」は「聖パウロ」に由来する名前です。

①When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be.
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom, let it be.
Let it be, let it be.
Whisper words of wisdom, let it be.
僕が困っている時
メアリー母さん(Mother Mary)は僕に歩み寄り
いいことを言ってくれた

なりゆきに任せなさい」(let it be)
そして僕が暗闇の中でもがいていると
彼女は僕の目の前に立ち
いいことを言ってくれた
なりゆきに任せればいいのよ
(let it be)、
なすがままに、あるがままにすればいい(let it be)、
そっと呟いてみなさい
そのままでいいんだ(let it be)、と

②And when the broken hearted people
Living in the world agree,
There will be an answer, let it be.
For though they may be parted there is
Still a chance that they will see
There will be an answer, let it be.
Let it be, let it be. Yeah
There will be an answer, let it be.
傷ついた人たちが同じ世界でやってくには
成り行きに任せるしかない
(let it be)
それでもまたばらばらになるかもしれない
でももしまだそこに分かち合うチャンスが残されているのなら
「成り行きに任せよう」(let it be)という結論に辿り着くだろう
なすがままに、あるがままに
(let it be)、
いつか一つの結論に辿り着くだろう
あるがままでいいんだ(let it be)、という結論に

③And when the night is cloudy,
There is still a light that shines on me,
Shine on until tomorrow, let it be.
I wake up to the sound of music
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be.
Let it be, let it be.
There will be an answer, let it be.
Let it be, let it be,
Whisper words of wisdom, let it be
曇りの夜でも
まだ僕を照らす一筋の光がある
明日まで照らしてくれる光がある
だから成り行きに任せよう
(let it be)
僕が音楽の音色で目を覚ますと
メアリー母さんは僕に歩み寄り
いい事を言ってくれるんだ
成り行きに任せればいい
(let it be)、と
なすがままに
(let it be)、あるがままに(let it be)
答えは一つさ
なすがままにすればいい(let it be)
そっと呟いてみるんだ
なすがままでいいんだ(let it be)
https://www.christianpress.jp/may-8-let-it-be-anniversary/ 2023年1月閲覧


5.「レット・イット・ビー」のもともとの意味

 しかし、さきにも出てきましたが、「この身になりますように/成りますように」というのはどういう意味でしょうか? これだけ聞いてもなかなか理解できないですね。この部分だけ切り取っても意味が伝わらないので、「ルカによる福音書」の当該箇所全文を引用します。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:38)

 「お言葉どおり、この身に成りますように」(let it be to me according to your word)とありますが、これだけでは意味がよくわからないですね。内容的には、「天使がおっしゃるように、この〈男の人を知らない〉私の身に無事に子どもを授かりますよう、成り行きにまかせます」くらいの意味になるでしょう。それでも、「翻訳する」となると、”it” や “be” を日本語にうまく/正確に/精確にのせるのは至難の業です。
 とはいえ、「ルカによる福音書」のこうした内容を考え合わせると、さきの「レット・イット・ビー」の日本語訳の「成り行きに任せればいい/なすがままに/あるがままに」という翻訳の「もともとの意味」、ないしは、旧約聖書(ヘブライズム)との関係がよくわかるようになるのではないでしょうか。

第Ⅱ部
「レット・イット・ビー」の「光」と、ウィトゲンシュタインの「光」


1.「光」について
 「レット・イット・ビー」の歌詞と哲学者ウィトゲンシュタインの『日記』の記述とを重ね合わせるときに、とりわけ重要だと思われるのは、歌詞の3番目の「曇りの夜でも/まだ僕を照らす一筋の光がある/明日まで照らしてくれる光がある/だから成り行きに任せよう」という部分です。「まだ僕を照らす一筋の光がある」「明日まで照らしてくれる光がある」、だから「成り行きに任せよう」というのです。「成り行きに任せる」理由として、「光」があるのです。
 「レット・イット・ビー」の歌詞の背景にあるのは、2つのサイトにあったように、「ビートルズの分裂」です。それまで一緒に活動してきたメンバーが離ればなれになるのは、①「僕が困っている時」「僕が暗闇のなかでもがいている時」、③「曇りの夜」などと表現されています。そして、②「傷ついた人たち〔4人のメンバー〕が同じ世界でやってくには成り行きに任せる(let it be)しかない」のです。
 この3番目の歌詞にある「光」は、文字通りとると、「曇りの夜」とか「明日まで」とありますから、当然「月の光」の可能性が高いです。以下では、ウィトゲンシュタインと「太陽」の話をしますが、月の光でも太陽の光でも、「光」は昔から人間にとても大切なものでした。また、種々の宗教でも「光」は重要な役割を果たしています。3番目の歌詞にある「光」も「宗教的な光」である可能性はないでしょうか…
 さらに、英語では「知性」と光とは深い関係にあります。たとえば、「啓蒙/悟り」は “enlightenment”、 「聡明な」は “bright” ですが、前者には「光」という語が見られ、後者には「明るい」という意味もあります。くわえて、歌詞の中で “Speaking words of wisdom, let it be” というのが、5回もくり返されますが、” words of wisdom” は直訳すると、「智慧の言葉」です。
 さて、旧約聖書は「創世記」から始まりますが、その冒頭(1:1-5)は次のようなものです。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 トルストイの短編に『光あるうち光の中を歩め』(執筆年不詳)という短編小説がありますが、そこではキリスト教的な生き方が議論されています。こうしたことも考慮すると、旧約聖書の冒頭に「光」のことが書かれているのですから、西洋において「光」は最初から宗教的な事柄と無関係ではなかったのです。

2.ウィトゲンシュタインと「太陽」
 ウィトゲンシュタインは、ノルウェーのショルデンという小さな村にある人里離れた山の中腹に「小屋」を建てて、そこに籠って重要な仕事――『論理哲学論考』『哲学的探究』『哲学宗教日記』などの執筆――をしました。そこは人を峻拒するような場所で、とても普通の人が住める場所ではありません。
 ちょうど10年前(2014年)の3月初旬に、私はこの地を訪れ、動画(『ウィトゲンシュタインのノルウェー』)を撮ってきました。URLを貼り付けますから、ぜひご覧ください!
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%88%e3%82%b2%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%81%ae%e3%83%8e%e3%83%ab%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%bc&&mid=6B32CEDF19AAA448F1C96B32CEDF19AAA448F1C9&&FORM=VRDGAR

 


上記の複数の傑作の一部を執筆したウィトゲンシュタインの「小屋」


ウィトゲンシュタインが毎日みていた風景。湖の対岸に見えるのが、ショルデンの中心部
(Photo by T. Watanabe)


「小屋」の跡から見た北側の急峻な山(Photo by T. Watanabe)


 1937年の厳冬期、ウィトゲンシュタインは高緯度のノルウェーの山のなかで、暗くて寒い毎日を過ごしています。思索・執筆に没頭しているのですが、体調もすぐれません。その頃の日記には、「身体の具合が悪い。非常に弱っており、めまいがする」「血便がくり返し出るようになってからもう二か月になる。痛みも少しある。ひょっとすると、自分は直腸癌で死ぬかもしれないと頻繁に考える」などと書かれています。
 また、同年2月21日の日記には「周りが冬であるように、私の心の中は(今)冬だ。すべてが雪に閉ざされ、緑もなく、花もない。だから私は、春を見るという恵みが自分に分かち与えられるのかどうか、辛抱強く待たなければならない」と認められています。
 そういう状況において、ウィトゲンシュタインは「太陽」を待ち焦がれているのですが、時間がたって春になり、顔をださなかった太陽をしっかり見ることができるようになりました。

 今、太陽が私の家にとても近づいている。ずっと元気に感じる! 身に余るほど調子が良い。(3月4日)
 さきほど本当に太陽が見つかったとき、私はとても嬉しかった。(3月14日)
 今日、太陽は11時45分頃から1時15分頃まで出ていて、それから3時45分頃、一瞬、山の上に現われた。そして、日没前に部屋の中に射し込んでいる。(3月23日)
 太陽はだいたい1時半頃に隠れるが、その後も山の端に沿って進んでいるので、その外縁はもっと長い間見えている。それは壮麗だ!(3月24日)
 今や、太陽は11時を少し過ぎると昇る。今日、それは光り輝いている。くり返し太陽を見つめないことは私には難しい。つまり、目に悪いと分かっていながらも、くり返し太陽を見つめたくなってしまうのだ。(3月27日)

 皆さんも、自分をウィトゲンシュタインがおかれた状況において、想像してみてください。体調も悪く、血の滲むような思索を人里はなれた暗くて寒い山の中腹で続けている…。光を/太陽を待ち焦がれる彼の心情はよく理解できるでしょう。
 下の絵はノルウェーの画家E・ムンクの「太陽」ですが、この絵は彼自身の「妄想性精神病」〔妄想型統合失調症〕が快方に向かう転換点ともなっています(宮本忠雄「太陽と分裂病――ムンクの太陽壁画によせて」)。古来、光や太陽は精神的につらい人々を癒してくれるのです。


ムンク「太陽」
統合失調症に苦しんでいたムンクは、この絵を描くことで癒された


 ウィトゲンシュタインの『日記』には「光」をめぐって次のように書かれています。

 自分の感覚に従うなら、彼〔真に義を求める人〕はただ光を見るだけではなく、直接に光の下へおもむき、今や光とともにある本質を持つようになるのだ……と言えるだろう。(2月15日)
 人間はおのれの日常の暮らしを、消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている。それが消えると、生から突然あらゆる価値、意味、あるいはそれをどのように呼ぶにせよ、そうしたものが奪われる。人は突然、単なる生存――と人が呼びたくなるもの――がそれだけではまったく空疎で 荒涼としたものであることを、悟る。まるで、すべての事物から輝きが拭い去られてしまったかのようになる。すべてが死んでしまう。(2月22日)

 私は、ウィトゲンシュタインを「宗教者」として捉えているのですが、この2つの引用は宗教的な論述です。この引用にある「光」「ある光」は物理的な光なのか、宗教的光なのか、という問題があります。「宗教的光」と解釈するのが妥当でしょう。しかし、それは物理的な(待ち焦がれた)太陽の光があって初めて意味をもつものです。創世記において神が「光あれ」といってから、太陽が照らす昼ができたのでした。宗教的な光は物理的な光のメタファーといえるでしょうし、「創世記」にあったように、ユダヤ=キリスト教の伝統では光は最初から宗教的な意味をもっていた、ともいえます。
 ところで、ウィトゲンシュタインは哲学者ですが、次のように述べています。

哲学は、すべてのものを、そのあるがままにしておく。(『哲学的探究』)
引き受けるべきもの、与えられたもの、それが生活形式〔=生活〕である。(同書)

 「哲学は、すべてのものを、そのあるがままにしておく」って、まさに「レット・イット・ビー」です!
 これらの「あるがままにしておく」「引き受けるべきもの」「与えられたもの」と、先に引用した「人間はおのれの日常の暮らしを、消えるまでは気がつかないある光の輝きとともに送っている」という文とを結びつけると、次のようになるでしょう――ウィトゲンシュタイン(およびわれわれ)の日常の生活が宗教的な光によって照らされ、意味を与えられているのならば、その生活を変える必要はなく、それをそのあるがままに引き受けるだけで良い
 物事や生活を「あるがままに見る/あるがまましておく/あるがままに引き受ける」ということは、ウィトゲンシュタインが求めた、彼のあるべき姿勢です。
 以上を踏まえて、「レット・イット・ビー」の歌詞にもどりましょう。

3.「レット・イット・ビー」の歌詞にかえって
 ⑴「レット・イット・ビー」の歌詞の第3番の前半には「曇りの夜でも/まだ僕を照らす一筋の光がある/明日まで照らしてくれる光がある/だから成り行きに任せよう」とありました。世俗的な普通の歌詞だといえば、それまでですが、これまでの議論から、「非常に宗教的な意味合いをもつものだ」と解釈できないでしょうか? つまり、ウィトゲンシュタイン的にいえば、宗教的な光の中で生きているからこそ、「成り行きに任せればいい/なすがままに/あるがままに」ということになります。
 ⑵後半の歌詞には「メアリー母さんは僕に歩み寄り/いい事を言ってくれるんだ/成り行きに任せればいい、と/なすがままに、あるがままに」とありました。ここで、「ルカによる福音書」のことを思い出してください。聖母マリアは天使から ”let it be” と諭されました。ポール・マッカートニーの母親「メアリー」(←マリア)が、この天使のように、夢の中に出てきて、自分の息子であるポールに ”let it be” と諭したとすれば、話としては非常にきれいなものになります。
 このように考えてくると、たとえ歌詞をつくったポール・マッカートニーが宗教的意味合いをもたせるつもりはなかったとしても(あったかもしれませんが)、「この歌詞はユダヤ=キリスト教という長い宗教文化の伝統をふまえたコンテクストの中から生まれてきたもの」と解釈しても悪くはないでしょう。
 さらにいえば、たとえこの歌詞がまったく世俗的なものだとしても、宗教的な意味を含めて解釈するほうが、歌詞の深みが増すとは思いませんか? 私見では、歌詞の解釈は「創造」であり、鑑賞する側の力量も問われます。もちろん、歌詞を創った作者が伝達したいことを的確に理解することも必要です。しかしながら、たとえ歌詞の作者自身が認めなくとも、より深い解釈を生み出しそれをとるほうが、歌詞そのもののためには良いでしょう。いや、最終的には作者自身にとっても良いことではないでしょうか? 自分が創った歌詞が、自分で考えている以上の素晴らしい可能性をもたらしてくれるのですから。
 「レット・イット・ビー」の歌詞が宗教的な意味合いをもたない、まったく世俗的なものだとすれば、少なくとも――芸術作品の場合に極めて重要なメロディー、ハーモニー、リズム、言語表現上の技巧などはいざ知らず――意味上においては、この歌詞は「軽い歌詞だ」「気休めにはなるとしても、それほど文学的価値の高いものではない」と感じる人もいるかもしれません。今回のブログで試みたように、「レット・イット・ビー」の歌詞をユダヤ=キリスト教の伝統のコンテクストのなかに位置づけると、より素晴らしい歌詞になるとは思いませんか?

おわりに

 最初に紹介した2つのサイトでいわれていることを、私の観点から深堀りしたつもりです。ここまで読んでくださった読者のなかには、「これ妄想じゃない?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「妄想」だといわれても、文化的背景も言語も異なるところから生まれ出た歌詞についていろいろと思索を展開するのは、楽しいことです。
 もう少し、ヘレニズムや「存在」と「レット・イット・ビー」の歌詞との関連について書こうと思っていましたが、今回これは諦めます。「レット・イット・ビー」の歌詞を宗教的観点から解釈することが、読者のみなさんに何らかの知的刺激を与えたとすれば、それで充分です。
 ところで、私は今年度で定年です。若いころからの不摂生などで、おそらく普通の人よりも身体に多くの問題をかかえています。正直いって、先行き不安です……。そうした中で、このブログを書いて、私は「今後の残りの人生は “Let it be” でいくしかない!」ことを再認識しました。

There is still a light that shines on me,
Shine on until tomorrow, let it be.



知人の瀧本さん(「後記参照)の愛猫(故)虎之助と(故)シナモン
猫好きな方は、下記URLをクリックしてください。


【註】
 1.しかし、これとはまったく異なる説明もなされています。このブログでは採用しませんが、紹介しておきます。引用したWikipedia の続きです。

1975年5月21日にアメリカのABCテレビで放映されたビートルズの特別番組『A Salute to the Beatles: Once upon a Time』でマル・エヴァンズは、「インドでポールが瞑想している時に僕が出てきて、”Let It Be, Let It Be” と言ったんだって。それがきっかけで曲ができたんだ。ある晩、セッションが終わってポールと一緒に家に戻ったら、夜中の3時にポールはこう言ったんだ。『曲ができたよ、ぱぱっと。”Brother Malcolm” っていう曲なんだ』と。でも、みんなに誤解されるから “Brother Malcolm” は変えたほうがいいんじゃない?って伝えたんだよ」と語っている。実際に初期のテイクでは、「Mother Mary comes to me(母メアリーが僕を訪れ)」ではなく、「Brother Malcolm comes to me(ブラザー・マルコムが僕の元にやってくる)」と歌われていた。


【後記】
 このブログの原稿を読んでくださった知人の瀧本往人さんから、メールをいただきました。最後のURLをクリックすれば、ビートルズの “She’s leaving home” (Lennon/McCartney)も聴けるそうです。興味のある方はぜひ試聴してください。メールの一部を貼り付けます。

少し前にポールを中心にジョンが残した音源をもとに再編集してビートルズの「新曲」Free as a birdを出したときに、得も知れぬ感慨がありましたが、それはまさしく「Let it be」の先にようやく小さな「光」が灯ったからだったように思います。
実は少し前に、下記のようなプライベート動画を作成しました。
※9曲目が、ビートルズのShe’s leaving home (Lennon/McCartney) 30:57-です。


【参考文献】
●ウィトゲンシュタイン(著)、I・ゾマヴィラ (編集)、 鬼界 彰夫 (翻訳)『哲学宗教日記』講談社、2005年。
●星川啓慈「太陽とウィトゲンシュタインの宗教体験」、『宗教哲学論考』明石書店、2017年、所収。

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