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哲学・宗教文化コース

【人文学科哲学・宗教文化コース】宗教文化研究B 身延山調査旅行②

前回に引き続き、「宗教文化研究B」の一環として行われた1泊2日の身延山調査旅行の様子をお伝え致します。今回は、奥之院までの登山について紹介します。

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 本堂の裏手にある道から、身延山(1,153m)の頂上にある奥之院を目指し、登山を開始しました。5分ほど歩くと、本地堂が見えてきます。ここは、釈迦入滅後、人々に法華経を説くと誓った上行菩薩を祀っているお堂です。そしてこのお堂は、祖師堂、丈六堂と一直線の位置に建てられており、日蓮上人がお釈迦様の教えを受け継いでいることを示しています。


 周辺には、身延山や日蓮宗に関係のある人達のお墓もあり、少しずつ遠くなっていく本堂や祖師堂と一緒に見ることができます。

 山道が木に囲まれ鬱蒼としてきたころに、大きなイチョウの木と稲荷神社が現れます。この稲荷神社は瘡守稲荷と言って傷や腫れ物の守護神と伝わっています。ここでお昼休憩をとりました。ここまでの道が予想外にきつく、予定時間より遅いペースとなってしまいました。


 お昼休憩の後、先に進むと上ノ山墓所がありました。掛川大田家、岩田吉川家、桑名松平家などの大名墓所で、他にも女性として、養仙院(京極氏)、順性院(甲府宰相綱重母)供養塔、肝道坊歴代住持墓所、国柱会を創立した田中智学の碑がありました。

 13丁目(山頂まで50丁あります)にさしかかったところで丈六堂にたどり着きました。尼僧さんが温かく迎えてくださり、釈尊堂にある金色のお釈迦様を見せてくださいました。このお釈迦様は高さが16(5)あり、丈六堂の名前の由来ともなっています。お釈迦様は、京都三宝寺の日護上人が彫られたと言われており、丈六堂は徳川家康公の側室であったお万の方が中心となって寄進されました。1643(寛永20)年の建設当初は久遠寺の境内地に建てられましたが、1664(寛文4)年に現在の地に移転されます。



 丈六堂から30分ほど歩くと大光坊が見えてきました。大光坊は日蓮上人が自作した大黒尊天が本尊の大黒堂や三光天子を奉る三光堂がありました。ここで小休止を取り、大光坊を出ます。ここから舗装された道から山道に変わりました。それでも比較的なだらかでコンクリートだった舗装道に比べてクッション性がありました。木々の間から望む景色はきれいで登ってきたことを実感します。それと同時に少しずつ肌寒くなってきました。


 途中には佛所護念会が奉納した水源ポンプが設置されていました。このあたりから勾配が急になり、山頂が近いことを実感します。


 最後の休憩所である法明坊に着きました。ここは、日郎上人が日蓮上人のために水をくみ上げた場所であり、日郎上人の井戸と呼ばれています。ここに日勇がお堂を建てて法明坊となりました。ここまでくると一枚羽織らなければならないほど寒くなりました。

 しばらく歩くと展望台が見えてきました。しかし、途中から変わった天気によって展望台からの景色は一面が霧でした。石段を登り、奥之院思親閣へ到着です。思親閣の名前は、日蓮上人が身延山に身を隠している間、故郷にいる両親や師を追慕していたことに由来しています。この追慕を思親大孝といい、霊場であった場所に思親閣が建てられました。大きな山門を抜けるとそこには立派なお堂が霧の影響から不思議な雰囲気を醸し出しています。


 線香をあげたり、御朱印をもらったりと各々過ごしてケーブルカーの駅へ。軽食やお土産を買ってケーブルカーで下山しました。

 

 下から見上げると奥之院の標高が高かったことを実感します。
ケーブルカーを下りたら、そのまま宿坊へ。晩御飯と風呂を済ませて、明日の朝勤に備えて早めに就寝しました。

 

<文責:福田圭晃・磐城瑚姫>

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