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比較文化専攻

戦争と文化(12)――カントの『永遠平和のために』で描かれた理想世界と現実世界との乖離

はじめに

新年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

哲学者のI・カントは実に多くの著作を残していますが、『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden, 1795)という、小著ながら、大きな影響をもった著作をあらわしています。その「大きな影響」とは、現在の国際連合の前身である国際連盟の設立にあたえた思想的影響のことです。

第一次世界大戦も終わった頃の1918年、アメリカの第28代大統領ウィルソンは「14か条の平和原則」を発表しました。この中の第14条で、彼は国際平和機構の設立を提唱し、これが国際連盟として実現したのです(ただし、アメリカは国際連盟の一員にはなりませんでした)。一般にいわれるところでは、この「14か条の平和原則」がカントの平和思想から大きな影響を受けている、とされるのです(註1)。第14条にくわえて、軍備の縮小を述べる第4条にも、カントの影響が見られるかもしれません。

今回は、この『永遠平和のために』をとりあげましょう。戦争肯定派が多かった当時のヨーロッパにおいては画期的なものだったようですが、一言でいうと、「カントの理念は素晴らしいが、現実は甘くない」ということになるでしょうか…。

 

カント.jpg

 『永遠平和のために』の第3予備条項

『永遠平和のために』は、主として、永遠平和を確立するための6つの条件をあげている第1章「予備条項」と、それを実現させるための3つの条件をあげている第2章「確定条項」から構成されています。

予備条項には、「常備軍の撤廃」という第3条項があります――「〈常備軍〉は、時が経つとともに全廃されるべきである」。というのは、「常備軍は、いつでも戦争を始めることができるという準備態勢によって、他の国々を絶えず戦争の脅威で脅かすから」です。また、常備軍の存在は、「互いに軍事力で優位に立とうとする国家間の野心を刺激し、果てしのない軍備拡張」をうながします。その結果、「増大する軍事費のため、平和の方が短期の戦争よりもいっそう重荷となる」という逆説的事態がひきおこされます。そうなると、「この重荷を解き放つために常備軍そのもの」が、「先制攻撃」「侵略戦争」の原因となります。このような論理で、「常備軍の撤廃」が主張されるのです。

それだけではありません。兵士となれば、敵を殺したり敵に殺されたりするわけですが、兵隊に雇われることは「人間をたんなる機械や道具として、他のもの(=国家)の手で使用すること」を含んでいます。カントは、こうした人間の使用は「われわれ自身の人格における人間性の権利と一致しえない」と考えます。彼の哲学には「人間を手段として使用してはならない」という根本的な主張があります。

 

『永遠平和のために』の第1確定条項

次に、第1確定条項ではこのように述べられています――「各国家における市民的体制は、共和的であるべきである」。それでは、「共和的」というのはどういうことでしょうか?

「共和的体制」とは、第1に「社会の成員の(人間としての)自由の諸原理」、第2に「すべての成員の(臣民としての)唯一で共同の立法への従属の諸原理」、第3に「すべての成員の(国家市民としての)平等の法則」、これら3つに基づいて設立される体制のことです。

ここで問題となるのは、カント自身も述べているように、「共和的体制が永遠平和へと導くことができる唯一の体制であるかどうか?」ということです。彼は、共和的体制は「永遠平和への展望をもつ体制である」と明言していますが、その理由は、以下のようなものです。

独裁的/君主的体制とは違って、共和的体制のもとでは、「戦争をすべきか否か」を決定するために、国家市民の賛同が求められます。この場合、当然のことながら、市民たちは「自分の身の上に降りかかる戦争のあらゆる災難」を引きうける決意をしなければなりません。ここで、カントはかなり楽観的に次のように推理します――「こうした割に合わない博打〔=戦争〕を始めることに対し、彼らがきわめて慎重になるのは、実に当然のことなのである」と。いいかえれば、「きわめて慎重になった」市民は開戦に同意しないだろう、と推測したのでしょう。

 

 

カントの現実認識

カントといえば、「理想を追い求めすぎる哲学者」「事実認識が甘い哲学者」という側面もあります――こういうと、カント研究者から反論がでそうですね(笑)。『永遠平和のために』の後に書かれた、『人倫の形而上学』(1979)の一節も引用しておきましょう。

このような諸民族の寄り合いからなる国家〔普遍的な諸国家の連合〕が、広い地域にわたってあまりにも拡大されると、それを統治し、ひいてはまた各成員を保護することは、ついに不可能とならざるをえず、こうして連合体を形づくる諸集団は、ふたたび戦争状態をひきおこすことになるので、永遠平和(全国際法の最終目標)は、当然のこととして、一個の実現不可能な理念にとどまることになる。(法論の第2部「公法」より)

実は、このあと「しかしながら…」と続き、自分の見解を披歴しています。私がここで指摘したいのは、カントはたんに理想的なことばかりを論じているのではなく、この引用に象徴されるように、ある種の事実(永遠平和の達成不可能性)もしっかり予想していた、ということです。日本が国際連名から脱退するときの松岡外務大臣の姿、現在の国連の現実の姿などと、カントの予想とがだぶります。

残念ながら、人類は「永遠平和」という理想を実現できていません。現在のところ、われわれ人類は、「永遠平和という理想」と「戦争・紛争・テロの絶えない現実」との狭間に生き続けているのです。

 

 

永遠の平和のために.jpg

 

 カントの理想と現実の「共和国」の姿

クレフェルトも述べているように、多くの先駆者や同時代の思想家たちとともに、カントは「戦争というものは王侯貴族が自分たちのためにするゲームにすぎない」と考えていました(第1確定条項、参照)。一般的にいうと、傷つき、苦しみ、死ぬのは庶民であり、王侯貴族ではなかった、ということです。クレフェルトによれば、王侯貴族は、①戦争中宮殿から出てこない、②戦場に向かったとしても、捕虜になれば解放宣誓書により釈放される、③出征中も財産は守られていた、などということがあるそうです。だとすれば、王侯貴族は戦争に対してそれほど恐怖をいだく必要はなくなります。これらが事実だとすれば、カントも述べているように、必要なことは次のことです。すなわち、君主制を廃止し、貴族の特権をなくし、主権在民の「共和国」の形態に国をつくり変えることです。これが実現できれば、戦争は亡くなる可能性がでてくるわけです。

しかし、事実はこうしたカントの理想とは異なりました。1789年の革命後のフランスは「共和国」になりましたが、これは彼が望んでいたものとは違うものとなりました。カントは「理念」「理想」としての共和国を念頭においていたのでしょうが、「現実」の共和国は好戦的な様相を呈しました。

1792年から93年にかけて、フランスは侵略の犠牲者だったかもしれません。けれども、クレフェルトによれば、その後「共和国〔フランス〕は銃剣を使って、世界各国に自由・平等・博愛を輸出していた」のです。さらに、ヴァンデ地方で王党派農民が反乱をおこすと、火を放ち、農民を虐殺し、その数およそ25万人(註2)と推定されるそうです。反乱を鎮圧すると、彼らは、ドイツ・スイス・イタリアなどを侵略しました。さらには、エジプトにまで遠征しました。くわえて、1799年にナポレオンが政権を握ると、戦争の規模はさらに拡大し、激しさも増しました。フランス革命から彼の失脚までの26年間、戦争が絶えることはなかったのです。

 

クレフェルトのカント批判

以上のような事実ならびに他の諸事実を挙げながら、クレフェルトは「共和主義が戦争を減らすのに役立つとは言えないだろう」と結論づけます。つまり、カントのいうことは間違っているということです。さらにクレフェルトによれば、皮肉なことに、戦争を減らすことに貢献したのは、ウィーン会議(註3)を主催したと同時に、保守主義者で絶対君主制を強く支持する、メッテルニヒだったのです。その後の政治体制を見ても、共和制の国々は戦争をしないというのは、事実に反しています。 

 メッテルニヒ(晩年写真).jpg

 クレフェルトは、「カントとその信奉者たちは、一般大衆がどの程度戦争に魅力を感じ、しばしば戦争を望み、戦争を求め、戦争を喜ぶか、こうしたことを過小評価していた」と論じています。「大衆が、戦争を何よりも刺激的だと思うこと」「いったん戦争が勃発すると、男たちはいずれも従軍しないことを恥と考えること」などを、カントは洞察しなかったということです。

エリートと一般大衆の利害が異なることはよくあることです。しかしながら、クレフェルトは次のように警鐘を鳴らしています。

 しばしば、エリートと一般大衆の利害関係…が一致し、一つになり、不可分になることもある。軍旗が上がり、信仰あるいは祖国、あるいは国の名誉などが危険にさらされている肝心なときほど、そうなること〔戦争を求めること〕は強調しなければならない。

 以上のような事柄は、共和制国家に住む人びとにも当てはまるのです。

 

おわりに

 私は若いときに、カントの哲学に惹かれました。彼の見解が国際連盟/国際連合の理念にも生きていることは、素晴らしいことです。しかし、現実の世界は、彼の思うようにはなっていません。残念なことです。その一方で、『人倫の形而上学』から引用したように、彼は自分の議論の限界を充分に認識していたといえるかもしれません。

 人類における「永遠平和」というのは、カントが構想したような理念的なものと、国連やNPO等による具体的活動のようなものとが両輪となって、その実現に近づけるようなものだと思います。理念ばかりの話だけでも、理念のない活動だけでも、「永遠平和」は実現できないような気がしてなりません。

 

 †

さて次回についてですが、少し前に、茨城県阿見町にある「予科練平和祈念館」を取材したので、現実の太平洋戦争・予科練・特攻隊などについて論じます。かなり詳細に記念館を紹介します。平和についての思索を深めましょう。

その後は、メアリー・カルドーの『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』(Old and New Wars, 2001)を3回にわたって取り上げます。カルドーは、このブログで取り上げた、クラウゼヴィッツの戦争観はもはや古くて現代の戦争の分析には適用できない、と断じています。彼女の『新戦争論』を踏まえながら「新しい戦争」論を検討してみましょう。また同時に、クラウゼヴィッツの『戦争論』が現代に至るまでいかに大きな影響を与え続けているかも、理解できると思います。

このブログのアップは毎月1日ですから、次回は2月1日です。

 

 

星川啓慈(比較文化専攻長)

 

 

 

【註】

(1)しかし、これを厳密に論証するのは、なかなか困難かもしれません。

(2)信じがたい数字ですが、引用の間違いではありません。

(3)フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された会議。

 

【参考文献】

(1)I・カント(遠山義孝訳)『永遠平和のために』(カント全集第14巻、岩波書店、2000年、所収)。

(2)M・クレフェルト「平和だった時期はほとんどない」(石津朋之監訳『戦争文化論(下)』原書房、2010年、所収)。

(3)坂部恵『人類の知的遺産第43巻――カント』講談社、1979年。

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