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比較文化専攻

戦争と文化(19)――「テロリズム」であるかどうかは、それを判断する人の立場や価値観や時代によって異なる場合が多い。元テロリストでもノーベル平和賞を受賞する!

はじめに

 第12-14回のブログで、カルドーの『新戦争論』を取り上げました。そのなかでは、新しい戦争の形態として、「テロ」が論じられています。また、第11回目のブログでは、石川明人氏の『戦争は人間的営みである』を取り上げましたが、ブログでは言及しなかったものの、そこでもテロについて論じられています。今回は、「テロ」について考えてみたいと思います。

 まず、3月20日の朝日新聞の第1面の記事「イラク 平和が遠い」の引用から始めましょう。

  …イラクでは、宗派対立を利用した人口過密地域での大規模テロが続いている。19日にはバグダット市内を中心に連続爆破が起き、ロイター通信によると少なくとも約50人が死亡した。今年3月に国連がまとめた報告書によると、昨年11月中旬~今年1月末の2カ月半でテロなどによる〔イラク〕国内の民間人死者は741人。イラク戦争開戦から昨年までの民間人死者は12万人を超えるとも推計されている。

 息が詰まりそうですね。われわれ日本人には想像もつかないですね…。この記事を見る限り、同じイスラム教信者の間でも、宗派が異なれば互いにテロを行なうということです。もちろん、宗派の対立だけがテロの原因ではないのでしょうけれども。

 

「テロ」とは何か――見方によって変わるもの

 「テロ」というのは「テロリズム」の短縮形ですが、時代によってその意味も変わってきています。「テロリズム」の語源はフランス革命の時代に遡るようですが、その時代には、ジャコバン党の恐怖政治に対して、新体制を守るための統治手段と見なされ、肯定的なニュアンスをもっていたそうです。また、テロの主体もじつに様々で、政党・国家主義組織・民族主義団体・宗教組織・革命家などによって、テロ活動はおこなわれてきました。一口に「テロ」といっても、その内実は多種多様なのです。

 

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 さしあたり、石川氏の著作にみえる作業仮説を紹介しておきましょう。

  テロリズムとは、政治・宗教・民族・イデオロギーなどさまざまな動機から、社会のありようを矯正することを意図して、無差別的、非合法的に暴力を行使する、もしくは行使すると脅かす行為である。その正体は、支配者側であることも被支配者側であることもあり、また個人あるいは国際的な組織である場合もあるが、いずれにしても、それが「テロリズム」であるかどうかは、それを判断する人の立場や価値観や時代によって異なる場合が多い。

 今回問題にしたいのは、最後の「テロリズムであるかどうかは、それを判断する人の立場や価値観や時代によって異なる場合が多い」という部分です。

 あと2箇所、石川氏の本から引用します。

   (1)暴力、あるいは暴力の試みについての評価は、所詮は極めて主観的なものにすぎない。誰がテロリストであるかという判断は、それを判断する人の立場や価値観によって異なるものである。

   (2)結局のところ、いま私たちが使う「テロリスト」という言葉は、その人たちのなす行為への否定的な価値判断を含んだ呼称なのである。ある人や組織を「テロリスト」と呼ぶか否かは、その人や組織の主張に賛成するか反対するかという主観的な判断にかかっている。換言すれば、一方の側の人たちが、対抗する相手に「テロリスト」というレッテルをうまく貼りつけることができれば、他の人たちにその組織に対してネガティブな認識をさせることに成功したことになる。

 ある暴力行為がテロか否かは、主観的/相対的なものでしかないのに、現在の世界では、「テロ」というレッテルをはられると「悪」になってしまうわけですね。

 ここで、皆さんご存じの、中東/パレスティナに目を移しましょう。アラブ諸国に住む多くの人々は、おそらく、パレスティナの人々がイスラエルに対して行う「暴力行為」「自爆テロ攻撃」を支持しています。これとは反対に、多くのユダヤ人が住むアメリカ(註1)はイスラエルを支持しています――最新の兵器を保有しているイスラエルと違って、パレスティナの人々は最新の兵器を持っていないのですから、見方によっては、「自爆テロ」も仕方ない手段だと解釈できます。

 アラブ諸国は、次のように主張して、アメリカを批判します――アメリカは、イスラエルに対する場合とそれ以外の国に対する場合で「異なる基準」を使い分ける(二重基準)、つまり、アメリカはイスラエルには甘い、と。

 われわれ日本人はどのように考えているでしょうか。日本のマスコミの報道からすれば、どちらかといえば、日本人はアメリカよりの見方をしていないでしょうか。中東諸国に長い間滞在していたある年配の人から「日本のアラブ諸国の報道はアメリカよりだ」というのを聞いたことがあります。私にはその真偽は判定できませんが、じゅうぶんに考えられることです。さらに、日本人の多くは、イスラム教は攻撃的/危険な宗教だ、と感じているのではないでしょうか。

 しかし、穏健なイスラム教徒はいくらでもいます。もしも、日本がイスラム教を信じている国だと仮定すれば、イスラム教に対する日本人の見方はかなり変わってくるでしょうね…。

 

テロリストの生の声

 世界各地でいわゆる「自爆テロ」というものが行われています。犯行の後、指導者が声明を出す場合もあります。世界の耳目を集めることが、テロの1つの目的だからです。しかし、われわれは実際にテロ行為を行なった人の生の声を聞いたことがあるでしょうか? ないでしょう。自爆テロを行なった人たちは殆どの場合、その後亡くなるわけですから、彼/彼女たちの声は聞けるはずはありません。

 アメリカにユルゲンスマイヤーという学者がいます。彼は世界中を飛び回って「宗教と暴力」のことを研究しています。そして、宗教と暴力が密接な関係にあることを、さまざまな手法で実証しています。彼の『グローバル時代の宗教とテロリズム』という本の中に、いわゆる「自爆テロ」を決行する若者のことが出てきます。

 ユルゲンスマイヤーは、おそらく18歳にもなっていない「ハマース」――パレスティナの過激派グループとみられている一方で、貧困者に対して援助活動もしています――の一員である若者のことを紹介しています。その若者は、まさに明日、自分の命をかけて攻撃(自爆テロ)するという日に、ビデオの中で、次のように語っていたそうです。さらに、明日、自分の生命を失うというのに、笑ったり微笑んだりしながら語っていたそうです。

  明日は決戦の日です。世界を統べる主と出会う日でもあります。神のために私たちの血を捧げます。これは、私たちの故国への愛と、ここに住む人びとの自由と名誉を護る気持ちに由来するものです。パレスティナ人がイスラムの教えを守り続けること、ハマースが混乱し苦しみに喘ぎ抑圧されているすべての人々が進む道を照らす松明であり続けること、そして、パレスティが解放されることを願っての行為なのです。

 さらに、別のビデオに写っていた少年は、次のように述べていました。

人はすべていつか死ななければなりません。だから、自分の宿命を自分で選べるのは、なんと幸せなことか。…ロバから落ちて死ぬ人もいます。乗っていたロバに踏み殺される人もいます。車にはねられる人もいるし、心臓発作に襲われる人もいます。屋根から落ちて死ぬ人もいます。人間の死には、死に方によって何らかの差はあるのでしょうか。…「本当に死は一生に一度しかありません」。…だから、その死を神のもとへ向かう道で迎えましょう。

 ユルゲンスマイヤーは、後者の少年のビデオを見て、「そこには言外に、殉教による死を選択できる機会はごく稀で、それに恵まれた自分は幸運だという気持ちが込められていた」と述べています。

 以上の若者2人の話を聞いた読者はどのように感じたでしょうか。私は、彼らが心底からの殺人鬼ではないと思います。彼らは、別の教育を受けていたら、「自爆テロ」には走らなかったでしょう。むしろ、年齢的なものもあるかもしれませんが、彼らには若者らしい「純粋さ」を感じます。反対に、読者の皆さんも、彼らのような育ち方をすれば、彼らのように語るかもしれません。

このようにいうと、「やらせに決まっている」「著者はテロリストに味方している」という批判もされるでしょうね。また、事情を少し知る人のなかには、「自爆テロという殉教をすれば、彼らは天国にいける」「貧しい彼らの家庭が、彼らの死後、ハマースによって経済的に保証される」という打算がはたらいた可能性もあるなどと、指摘する人もいるかもしれません。それでも、私は、彼らには一種の「純粋さ」を感じます――間違っているでしょうか。日本やアメリカに生まれていれば、彼らも別の考え方をしたに違いありません。

 

「自爆テロ」と「みずから選んだ殉教」

少し余談になりますが…。

イスラム教では、「自殺」は禁止されています。これは、兄弟宗教であるキリスト教やユダヤ教においても同じです――イスラム教の「アッラー」は英語の「ゴッド」であり、「アッラー」という固有名をもつ神のことではありません。おそらく、神から授かった尊い命を自らの手で断つことは、神に対する一種の冒涜となるからでしょう。そうすると、「自爆テロ」は「自爆」ですから、自殺の一種です。だから、建前としては、自爆テロは禁止されていることになります。しかし、推測するに、これは状況によって変わるのでしょう。イスラムに攻撃を仕掛ける者が出てくれば、当然、武器をとって戦わなければならないのですから。これは『クルアーン』にも書かれていることです。

「自爆テロ」と「みずから選んだ殉教」について、かつてのハマースの最高指導者であり、2004年にイスラエル軍により殺害されたアブドゥルアジズ・ランティシは、「〈自爆攻撃〉という言葉を使うべきではない」と主張しています。「自爆攻撃」「自爆テロ」などというと正道から外れた一個人が衝動的におこなった行動という意味合いをもっている、よく知られたアラビア語の「イスティシュハディ」(istishhadi)という言葉の方が望ましい、というのです。これは「みずから選んだ殉教」という意味です。

さらに、ランティシによれば、「ハマースの組織決定として若者によって行なわれる使命は、若者が宗教的義務の役割を果たすべく、慎重に注意ぶかく選択した結果の行為」です。つまり、「自爆テロ」は指導者から命令されて行なうものではなく、それを決行する人々が自分から/自分の意志によって選びとったものなのです。そして、ハマースの指導者たちはそうした人々に自爆テロを命じるのではなく、時に応じて、彼らに許可を与えるだけなのです。

これを読んだ読者の中には、「そんなに純粋に若者が命を捨てるとは思えない」「〈みずから選んだ〉とはいいながら、やはり、何らかの圧力があるだろう」と推測する人もいるでしょうね――当然でしょうね。私もランティシの言葉を額面通りに受け取ることには躊躇いを覚えます。

さらに、明日「みずから選んだ殉教」を決行する若者たちのビデオは、他の若者たちにも見せられるそうです。もしそれが事実なら、そのビデオを見た他の若者の中から、また「殉教をみずから選ぶ者」がでてくる可能性もないとはいえないでしょう…。

 

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 テロリストがノーベル平和賞を受賞する?

 「テロリストがノーベル平和賞を受賞する」というと、びっくりする読者が多いでしょうね。何しろ「テロは絶対に悪い」というのが、われわれの常識ですからね。石川氏も紹介していますが、元テロリストがノーべル平和賞を受賞した例もあります。イスラエル首相であったメナヘム・ベギン(2枚目の写真)と、南アフリカ共和国の大統領であったネルソン・マンデラ(1枚目の写真)です。

 第二次世界大戦前から、イギリス領パレスティナでは、ユダヤ人テロ組織「イルグン」などが、反英・反アラブ闘争を行なっていました。1946年にイルグンは、イギリス支配の中枢となっていたホテルを爆破し、91名の死者と45名の負傷者を出しました。このイルグンの指導者の1人がベギンで、後にイスラエル首相となり、エジプトと平和条約を締結し、1978年にノーベル平和賞を受賞したのです。

1マンデラは、961年、アフリカ民族会議の武闘部門「民族の槍」を組織し、地下に潜って活動しました。64年に終身刑を宣告されますが、90年デクラーク政権により釈放されました。そして、1993年、「新しい政治秩序へ移行するための原則をもって、南アフリカの民主化を推進してきた」功績により、ノーベル平和賞を受賞したのです。

 

おわりに

 今回は、いろいろと例を挙げながら、「テロリズムであるか否か、誰がテロリストであるかは、それを判断する人の立場や価値観や時代によって異なる場合が多い」ことを論じてきました。

 誤解のないように述べておきますが、私はテロリズムそのものを肯定しているのでは決してありません。

ただ、種々の「テロ」といわれているものをよく見極めることが重要だといっているのです。すべてのテロを同一視して、1つの角度からしか物事を見ないとすれば、「それは危うい」と思うのです。短絡的で一方的な決めつけは、いかなる場合にも良くありません。

 難しいかもしれませんが、やはり、対立する陣営の「対話」が重要だと思います。また、若者がどういうものの見方・考え方を身につけるかも重要です。つまり、小さい頃からの教育と情報提供が極めて重要です。小さいころから、外部からの情報を断たれて危険な思想のみを注入されると、その人間は成長して多くの被害をもたらすでしょう。読者の皆さんも、小さい時から偏った思想教育をされ、武器を扱う訓練をうけると、有能な「テロリスト」になる可能性は否定できないのです。

 最後に一言。私は上記のパレスティナの2人の若者に同情的です。しかし、かりに私がイスラエル兵であり、彼らが「みすから選んだ殉教」を私に対して決行するのであれば、彼らといろいろと話し合い理解しあえたとしても、やはりその決行を阻止するように行動すると思います。

 9月も夏休みですが、このブログに休みはありません。次回のアップは、9月1日です。宗教がからんだ戦争の特徴について、考えてみます。ハンチントンの「フォルト・ライン戦争」とユルゲンスマイヤーの「コスモス戦争」を取り上げます。

(星川啓慈・比較文化専攻長)

【註】(1)2010年の統計によりますと、世界のユダヤ人は、1,358万人です。このうち、イスラエルに570.4万人、アメリカに527.5万人住んでいます。イスラエルとアメリカに住んでいるユダヤ人数はほぼ同じということです。また、人口比を考慮すると、アメリカのユダヤ人は、かなりの政治・経済的力を持っています。

【参考文献】(1)石川明人『戦争は人間的な営みである』並木書房、2012年、とくに第7章。(2)M・ユルゲンスマイヤー(古賀林幸・櫻井元雄訳)『グローバル時代の宗教とテロリズム――いま、なぜ神の名で人の命が奪われるのか』明石書店、2003年、とくに第8章。(3)星川啓慈『対話する宗教――戦争から平和へ』大正大学出版会、2006年、とくに第4章。(4)朝日新聞、2013年、3月20日、朝刊、第1面。

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