学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

宗教学専攻

【宗教学専攻】日本宗教学会第76回学術大会に参加しました①

 2017年9月15日(金)から17日(日)にかけて、日本宗教学会第76回学術大会が東京大学本郷キャンパスにて開催されました。本学研究室からは教員及び大学院生等19名が参加しました。

 大会2・3日目には、個人発表とパネルディスカッションが行われ、本研究室のOB・OG含め多数の本学関係者が発表を行いました。今回より3回にわたって学会の参加報告を行います。まず、本記事では個人発表について記します。

 今大会では、以下4名の院生らが個人発表を行いました。

(1)魚尾さん
「ハワイにおける教団組織の形成過程―布哇浄土宗教団を事例に―」

(2)髙田さん
「神仏分離令への対応と観光化―修験系集団を事例として―」

(3)長島さん
「沖縄の新宗教における思想と実践―龍泉を事例に―」

(4)髙橋さん
「「勤王僧」の顕彰に関する一考察―瀧谷寺道雅を中心に―」

(1)魚尾さんは、戦前のハワイにおいて浄土宗教団がどのような経緯で現地法人化(財団法人布哇浄土宗教団)に踏み切ったのか、そのプロセスとその後の組織変容について、教団資料や新聞記事からアプローチしました。さらに、すでに研究蓄積のあるハワイ本派本願寺の事例と比較検討することで、浄土宗の教団運営の特徴を明らかにしました。
 順調にハワイ社会で教勢を伸ばし、現地法人の設立も完了させていた本派本願寺に比べ、浄土宗は教団内外の諸要因により法人設立が難航していました。しかし、開教施策に精通した福田闡正が開教区長に着任したことにより状況は打開され、教団組織建て直しの一環として1927年に法人設立が達成されます。それにより教団内の諸組織や布教内容にも変化が見られました。
 また、信徒中心の「自給布教独立伝道」(中野毅)を行う本派本願寺に対し、浄土宗では本山の経済的保護を受けながら開教使を中心に運営がなされており、両者には本山との関係性および運営の主体に大きな差異が見られることが指摘されました。

(2)髙田さんは、修験系集団の神仏分離令への対応と観光地化の過程を、武州御岳山の事例から考察しました。その際、御岳山と同様に比較的スムーズに神仏分離令を受容した戸隠が比較的早く観光地化されたことに着目し、比較させることで、御岳山の観光地化プロセスを検討しました。
 両者は、ともに近世より社僧(神社付属の寺に属して仏事を行う僧)の勢力が衰退していたため、大きな混乱なく神仏分離令(1868年)に対応することができました。ただし、神主と御師の二本柱で運営がなされていた御岳山では、その後、配札等の御師活動が禁止され、山内経営に大きな痛手を受けました(講社本部を経由した配札はのちに解禁)。
 1930年代になると、御岳山周辺の鉄道網の発達や国民精神総動員運動の一環としての登山ブームなどがあいまって、外的な要因から観光地化が進みます。一方の戸隠では、道路整備によるバス網の発達によって観光客が増加しており、両者とも1930年代における交通網の発達により観光地化が進んだことが指摘されました。

(3)長島さんは、沖縄で最も教勢拡大に成功した龍泉(いじゅん)という新宗教の思想が、どのような要素によって構成され、どのように形成されたのか、教団資料や新聞記事、教祖・高安六郎への聞き取りに基づいて明らかにすることを試みました。
 高安は、龍泉立教以前、生長の家に入信し、講師を務めた人物ですが、先行研究ではその点が十分に検討されているとは言えませんでした。そこで長島さんは、龍泉の思想において、①沖縄の民俗宗教的な要素(ユタ的な要素)②「本土の宗教」に学んだ要素(生長の家的な要素)の2つがどのように共棲しているのか検討を行いました。
 分析の結果、龍泉が掲げるシンボルにおいては①が優位であり、救済観・災因論と死生観・霊魂観においては②が優位であることが指摘されました。長島さんは、高安のライフヒストリーを丹念に追うことで、単なる沖縄の民俗宗教の組織化・体系化ではなく、高安が①と②の要素を巧みに結びつけながら独自の思想を形成していったことを明らかにしました。

(4)高橋さんは、「勤王僧」道雅(福井・瀧谷寺、真言宗智山派)の贈位顕彰活動を事例に、月照、月性ら他の勤王僧の贈位顕彰のあり方と比較検討することで、近代日本における国家および地域社会と仏教の関係性について考察を試みました。
 勤王僧の贈位顕彰には、①国が主体的に功績を認めたケースと②寺院を含む地域社会側が主張・推進するケースとがあり、道雅の贈位顕彰活動は②のタイプであることが明らかにされました(昭和初期に2回の贈位請願)。しかし、昭和3年の申請時には調書の不備など請願者側の準備が整っておらず、積極的な運動が開始された昭和8年には、国による大量贈位のピークが過ぎていたため、結局、贈位には至りませんでした
 その要因について高橋さんは、贈位を受けた他の勤王僧のケースと比較を行い、道雅の尊皇運動は著述活動が中心であり、具体的な政治的行動を起こしておらず、また、その最期も殉難ではなく病死であったこと、何よりも明治以降、藩閥関係者の政治的な後ろ盾に恵まれなかったことが大きな要因ではないかと分析しました。

次回は、パネルディスカッションについて報告します。

                                     (文責:大場あや)

GO TOP